WELL-BEING

「寛容さ」を求めて |聖書に聞く #32

井上 智関西学院宗教センター 宗教主事、神学部 准教授

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

あらゆる生き物、すべての肉なるものの中から、二匹ずつを箱舟に入れなさい。

創世記6章19節

みなさんは聖書にどのようなイメージをお持ちでしょうか? 何かいいことが書いてあるもの。人生の教訓が書いてあるもの。そんなイメージを持っている方も多いかもしれません。しかし、実際に聖書を読み始めてみると、何やら難しい…。どこにいいことが書いてあるのか?と疑問に思ってしまうでしょう。

聖書は、私たちのまわりで出版されているいわゆる「啓発本」とは異なります。パッと読んだだけでは、よくわからない。普通に読書をしようとして読んでみても普通の本のようには読めない。そんな書物といえます。そして、時に矛盾しているようなことも記されているのです。

旧約聖書、特に五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)といわれる部分は、いくつかの資料から成り立っていると考えられています。冒頭の聖書箇所は有名なノアの洪水物語の1節で、「2匹ずつ」箱舟に入れなさいと記されます。一方、創世記7章3節には「7匹ずつ」と記されているのです。箱舟に入れられた動物は2匹ずつなのか7匹ずつなのか一体どちらなのでしょうか。この問いに聖書学者はこう答えます。「資料が違う」と。つまり、用いている資料の違いから数に違いがでるのだと。しかし、その回答は数の違いの説明にはなりますが、なぜ違ったまま記されているかの説明にはなっていません。現代では出版する際の校正段階で違いが指摘され、統一されそうなところ、古代ではあまり気にしなかったのでしょうか。

このような聖書の中の統一感のなさは、実はここだけではありません。

私は、こう思うのです。聖書を記した人々は、どちらかに統一するのではなく、どちらも受け入れ、残したのではないかと。つまり、AかBかではなく、AでもBでもよいと考える「寛容さ」があったのではないかと。どちらも大切な伝承である。だから、どちらか一方の記録を採用するのではなく、どちらも採用しよう、こう考えたのではないでしょうか。

現代社会ではAかBかの選択を迫られることも多く、私には少し息苦しく感じてしまうことがあります。確かにどちらかを選ぶことも大切です。しかし、AでもBでもよいと考えること、そのような視点を持つことも大事なのではないかと思うのです。一方の意見を重視するのではなく、両方を大切にする視点。そして「寛容さ」。折り合わないように見えるときには、両方の意見を受け止めていくことは大変ですが、私たちが寛容な視点で物事を見つめ、考え、受け止め、求めていくことを願っています。寛容さを求めていくことで、もう少し息のしやすい社会となるのではないでしょうか。

Profile

井上 智(INOUE Satoshi)

関西学院宗教センター宗教主事、関西学院大学神学部准教授。2002 年関西学院大学大学院神学研究科修了、2005 年博士課程後期課程満期退学。2002 年より岩手県・日本キリスト教団日詰教会主任担任教師、付属幼稚園でのキリスト教保育に 14 年間携わる。

運営元:関西学院 広報部

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