感性工学の第一人者・長田典子に訊く。 ビジネスの突破口になり得る、「感性」という付加価値
性能争いではすでに飽和状態に達しているとも言われる日本の産業界。売れる商品を生みだすためには、商品に何らかの付加価値をつけることが欠かせなくなってきています。近年、そのための重要なキーワードとなっているのが「感性」です。
今や「感性価値」という言葉も一般化してきましたが、実際、感性はビジネスにどう活かされ、どんなビジネスチャンスをもたらしてくれるのでしょうか。感性工学の研究者である長田典子先生のお話を通じて考察します。
Profile
長田 典子(NAGATA Noriko)
関西学院大学 工学部 情報工学課程 教授。専門は感性工学、メディア工学など。京都大学理学部数学系卒業後、三菱電機株式会社にて色彩情報処理、感性情報処理の計測システムへの応用に関する研究に従事し、大阪大学大学院基礎工学研究科博士後期課程修了。2003年より関西学院大学へ。2009年米国パデュー大学客員研究員、2013年感性価値創造研究センター長、2020年感性価値創造インスティテュート所長。感性価値を科学的データに基づいて数値化し、人が豊かで幸せに暮らしていくためのものづくりに役立てる研究を進めている。
この記事の要約
- 心を動かすことで人を幸せにする、ものづくりの学問が「感性工学」。
- 業界業種問わず、人が介在するものすべてに感性工学は活かせる。
- 個別最適化をめざす感性工学の視点は、SDGs達成にも重要。
「感性」は人の価値観や人生観まで含めた、とても多義的な概念。
日常的にもよく使われる「感性」という単語。「感性が豊か」というのは褒め言葉にもなっていますが、そもそも感性とは何なのでしょう。この問いに長田先生は、「学術的な定義については、ずっと論争が続いている複雑な言葉ですが、大きくは感情を伴う認知を指すものです」と答えます。
「感性は直感や心理的な能力でもあり、人の価値観や人生観まで含めた、とても多義的な概念です。日本人はこの言葉をとても愛していて、いろんな場面で使いますよね。私たちが手がけている感性工学は、感性を活用することで社会に資する、つまりは心を動かすことで人を幸せにするものづくりの学問です。
日本のものづくりは、すでに高い技術に到達していて、高性能なだけでは売れない時代になってきました。新たな付加価値をどうつくっていくかが新たなテーマになってきているなか、感性は、機能、信頼性、価格に続く、第四の価値と言われています。何かに共感する、匠の技にリスペクトする、自ら体験する……心を動かすことで付加価値をつくろうというのが、感性工学の直接的な目的です」
何かを購入する際、「心が動く」ことを判断基準にするケースは少なくありません。ものの背景にあるストーリーを知ることで、購買意欲が掻き立てられることも多いはずです。そういった感性価値を生みだすため、感性工学では感性を指標化する「感性のものさし」をつくるのだと長田先生は説明します。
「たとえば化粧品メーカー『コーセー』との共同研究では、透明感を極めるというコンセプトでファンデーションを開発するため、メイクで肌をどんな状態に導けば透明感があると感じてもらえるかを探りました。まずはメイクアップアーティストなど肌の専門家と一般の方々、100人以上から自由記述のアンケートで『素肌の透明感』と『メイク肌の透明感』に対してイメージする言葉を収集。集まった2,000語以上に関して、意味的な距離関係を測定する心理実験を行い、素肌とメイク肌のそれぞれにおける透明感に関連する語句をマッピングしました。これが『感性のものさし』づくりです。するとメイク肌のほうにだけ、シルクのような滑らかさといった、触感を表す独自の概念が出てきたんですね。その結果をお返ししたところ、触感から透明感を出す方向で開発が進められ、“肌どけファンデ”を謳った『雪肌精 スノー CC パウダー』が完成。大好評を得る商品になりました」
なるほど、素肌の透明感に対する概念と比較することで、メイク肌の透明感に求められる要素が明らかとなり、それを反映させた商品が開発されたんですね。このように、人間の感性を科学的に解明し、感性価値の創出につなげるのが感性工学というわけです。
感性工学の研究結果は、想像とまったく逆になるケースもある。
少しうかがっただけでも、なかなか大変そうな「感性のものさし」づくり。そのプロセスにおいて大切なのは、予断や偏見をもたないことだと、長田先生は強調します。
「たとえば、静音性の高いエンジンに心地いい駆動音をつけるための共同研究では、人がどんな音に対してどう感じるかを調べたのですが、静かなのが心地いい群と、騒がしいのが心地いい群、どちらでも快不快が変わらない群に、実験ではほぼ同数で分かれたんです。これって平均をとればゼロですが、特性の違う3群をうまく分けられると、それぞれに合わせたものを提供できますよね」
となれば、想定していたターゲットに近そうな群を狙ってもいいですし、最初から3パターンつくって選んでもらうのも、新たな体験価値にもなるでしょうし……。『エンジン音は静かなほうがいいに決まっている』という思い込みがあると、導きだしづらい結果だったかもしれません。
「キャンプ用品メーカーと協働し、『キャンパス内のテント空間が創造性に及ぼす影響』を調べた実証実験では、テント外よりもテント内のほうが、創造性が高まるという結果が出ました。しかし詳しく分析したところ、空間を開放的だと感じたときに創造性が高くなる人と、閉鎖的と感じたときに高くなる人がいて、その違いによってテント空間の作用が異なる可能性が見えてきました。つまり結果は同じでも、それがテント空間に自然の開放感を感じたから、あるいは集中できる密室を感じたから、という真逆の感覚に起因しているという意外な事実があったことがわかったのです」
こういったお話を聞くと、出てきたデータにきちんと向き合うことが大事だということがよくわかります。
業界問わず人が関わっているところはすべて、感性工学の適用対象。
社会が成熟するなか、感性価値はますます重視されてきています。2009年時点では29兆円だった感性価値の市場規模は、今や100兆円にのぼると試算されています。このような状況を裏づけるように、感性工学が活かせる業界は非常に幅広いと長田先生は説明します。
「人の感覚を尊重してものをつくるのが感性工学なので、人が関わっているところはすべて適用対象です。B to Bの業態であっても、ものづくりの間には必ず人が関与していますから。どんなものが求められているのかを調査・分析する入口部分にも使えるし、つくったものがどれだけ満足されているのかを知る出口部分、あるいはつくる過程で匠の技やノウハウを数値化する中間部分にも使えます。
また、わかりやすいのはメーカーですが、ものに限ったわけではありません。たとえば、旅行業も感性価値の影響が大きい分野です。観光資源の魅力化というテーマで兵庫県赤穂市と研究を進めていたのですが、8つの国別に旅行者の訪問意欲を調べたところ、国籍をこえた『観光動機タイプ』があり、タイプによって観光地で体験したい内容やストーリーが異なることがわかりました。武士道体験やシェフ体験といった能動的な体験価値を重視するタイプは欧米で多いのに対し、グルメや周遊体験など気軽さや癒やしを求めるタイプはアジアに多くみられました。
コロナ禍により人とのつながりや体感することへの価値が再認識されたので、感性工学はますます大事になってくると思います」
あらゆる分野に活かせるとなると、「感性のものさし」づくりにも苦労を要しそうです。しかし社会のデジタル化が、感性工学を後押しすることにもつながっているとのこと。
「感性工学は、もともとは感覚の測定方法に長けた心理学と、それをものづくりに応用する工学とのコラボレーションから始まった研究分野です。心理学的な測定は丁寧かつ緻密ではあるものの、どうしてもコストがかかります。しかし、今ではAIがコスト削減するうえでも非常に有用なツールになっています。テーマによってはSNSのコメントや商品レビューなど、感性のビッグデータをAIで解析することで、指標をつくれるようになりました。これまでにも、日本にいながらにして、北米の自動車やヨーロッパの芝刈り機の『感性のものさし』をつくったことがあります」
豊かかつ持続可能であるためには、無駄なものをつくらないこと。
「感性工学の極致はアートです」と長田先生。人を感動させたり喜ばせたりするアート的なものを数値的科学的に分析し、ものづくりに活かすのが感性工学だからです。しかし研究を突き詰めていけば、最終的には感性工学をもとにアートをつくることも可能になりそうですが、その道のりはまだまだ遠いと長田先生は語ります。
「作曲や作画、作文など、人工的にアートをつくる取り組みはさまざまに行われていて、私たちも何度か挑戦しましたが、AIや感性工学で一流のアーティストと同レベルの作品がつくれるかというと、まだまだです。やはり人間は素晴らしすぎると、いつも感じています。そんなアートに近づくための道筋を、感性工学で示したいという思いもあります」
さらに長田先生は、感性工学はSDGs達成にも寄与できると話します。
「豊かでなおかつ持続可能であるためには、無駄なものをつくらないことが不可欠。すなわち消費者がより好むものをつくり、付加価値を上げ、個別最適化していく必要があります。個人個人が本当にほしいものをつくっていけば、アパレルロスやフードロスなども減らしていける。感性工学に基づく研究開発は、SDGs的にも大事な取り組みだと考えています」
売れるものをつくるという視点だけではなく、世界共通の課題であるSDGs達成に向けても大切な視点というわけですね。あらゆるビジネスにとって、感性にどう訴えるかは、とても重要なテーマです。その視点から物事を捉え、新たな価値に転用していけば、身近なところからでもイノベーションは起こしていけるのではないでしょうか。
取材対象:長田 典子(関西学院大学工学部 情報工学課程 教授)
ライター:三浦 彩
運営元:関西学院 広報部
※掲載内容は取材当時のものとなります