AI研究者×キリスト教学者。今だからこそ考えたい、これからの“人間”とは何か【後編】

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AI研究者×キリスト教学者。今だからこそ考えたい、これからの“人間”とは何か【後編】

製造業からサービス業までさまざまな業界への導入が進み、私たちの生活にも密接にかかわるAI。ではAIと人間の関係は、これからどこに向かっていくのでしょうか。数学者でありAI研究者の巳波弘佳教授と、宗教哲学やキリスト教学を専門とする舟木讓教授が「AIと人間」をテーマに語り合った内容を、前後編に分けてご紹介。先にお届けした前編では、AIが日常生活でどのような働きをするか、さらに人間とAIの「知能」が話題となりました。今回は人間とAIの違いから「人間性」について考えるとともに、人間とAIの共生について議論を深めた後編をお送りします。

舟木讓教授と巳波弘佳教授(左から)

Profile

巳波 弘佳(MIWA Hiroyoshi)

関西学院大学工学部 情報工学課程 教授。関西学院大学副学長。学士(理学)、博士(情報学)。離散数学や最適化アルゴリズムとその応用に関する研究開発を展開。AIの高度化、AIを活用する多様なアプリケーション、リアルなCG製作、AIドローン制御、新材料開発、創薬、ブロックチェーン、インターネット設計・制御、宇宙物理学や化学、生物学におけるビッグデータ解析、経済学など、さまざまな応用領域において、数理的な研究から実用化まで幅広く手がけている。

舟木 讓(FUNAKI Jo)

関西学院大学 経済学部 教授、宗教主事。前関西学院長。神学修士。専門は宗教哲学、キリスト教学。19世紀デンマークの思想家、セーレン・キェルケゴールの思想を中心に研究。現在は、キュルケゴールの思想の底流をなす主要概念を、彼の公刊著作だけでなく日誌その他の資料を用いて包括的に解釈することに注力。彼が呈示した人間存在が抱える問題の分析と、そこからの解放への道を読み解くなかで、現代の人間と社会が抱える諸問題の分析もめざしている。

この記事の要約

  • AIと人間の根本的な違いは、不完全であることが許されるか否か。
  • AIの「自我」や「人間性」は人間の判断によって見なされるもの。
  • AIとともに「真に豊かな人生」を送る社会を築くことは教育次第。

ミスに対しても価値を見いだすのが、ひとつの「人間性」。

巳波:「自我」や「人間性」というのも、AIを考えるうえでも度々、議論されますが、キリスト教の視点からは、どう捉えられているのでしょう?

舟木:創造主である神は、神の似姿として人間をつくり、自らが創ったものをすべて「良い」と無条件肯定されています。私たちは合理性をもって人にレッテルを貼りがちですが、キリスト教ではすべてがそのままで尊い存在だということは神が保証しているわけです。ここから、自身はあるがままで尊い存在なのだと気づくことが「自我」であり、他者も同様にそうであると認め合いながら生きていくことが真の「人間性」だといえるんじゃないでしょうか。

また、キリスト教の創造神話では、アダムをエデンの園に住まわせた神が一つだけ禁止事項を与えます。何不自由ない平安の場所であるエデンの園の中央に置かれている「善悪の知識の木の実」だけは食べてはいけない、というタブーです。結局それを犯してしまうのですが、ここには人間が絶対的な判断ができない不完全な存在であることが象徴的に示されているといえます。私の存在も他者の存在も同じように尊い、しかし不完全ゆえに、さまざまな過ちも犯す。そんな謙虚さのなかで、自らの判断を絶対とせず、常に謙虚に誠実に他者と交わり、社会での働きを行う。これこそが「人間性」のある人間の態度だと考えられます。

宗教主事を務める舟木教授は、本学チャペルでの結婚式を執り行うこともある

一方、古代ギリシャの哲学者であったプラトンは、「イデア」という概念によって、この世界に存在するすべてのものはイデアの世界にある本質の写し絵であると説いています。たとえば目の前にあるコップはひとつの形態にしか過ぎず、違う形のコップもあり、コップという本質はイデアの世界にある。見えているコップは仮に写している姿にしか過ぎないのだと。だから物事の本質というのは我々には見えない。我々人間は完全に物事を理解できないという謙虚さのなかで、レッテルを貼らずに受け容れていくのが大事じゃないかと感じます。

巳波:非常に興味深いお話です。不完全なものであってよし、ということを全面肯定できるのが人間社会だと。しかしAIを研究開発するとしたら、AIはあくまで道具にすぎず、不完全なものであってはいけない。もし究極のAIを人間がつくれたとしたら、それは完全なものでなければなりません。AIは自分自身を完全だと思うよう、運命づけられている存在です。そこに人間とAIの本質的な差があるように感じます。

舟木:人間関係においても、自分の弱さに気づいていない人と接するとしんどいですよね。逆にいろんな経験をし、自分の弱さを知っている人のほうが、共感力があるというか、一緒にいて安心する。言われたとおり、AIは少しでもミスがあってはいけないんでしょうが、もし人間にミスが許されないなら生きていけません。ミスを通して学んだり、新たな歩みが始まったり、人の弱さに気づいたりできる。ミスに対しても価値を見いだすのが、ひとつの「人間性」であり、人間の知能を働かさなければならないところかと感じました。

巳波:これをAIとして考えると、非常に難しい。不完全であってよしとするAIってなんだろうと考えると、そんなものはあり得ないとしか思えません。もちろん完全なものをつくれるわけではありませんが、不完全であっていいAIってなんだろうと。

舟木:矛盾しちゃいますよね。

巳波:そうですね。人間は大昔から知能を持つ存在をつくることを夢想してきましたが、長い間、近いものですらつくれませんでした。「人間らしい」対話が可能となりつつあるチャットボットも、結局は人間がつくったアルゴリズムに支配されているだけです。自身を書き換えるメタ的なアルゴリズムを設定したとしても、人間が組み込んでいるわけなので、本質的には同じともいえ、人間がつくるAIはいつまでたっても「自我」や「人間性」を持つわけがないといえるのかもしれません。

しかし他者との関係性で考えるならば、「人間らしい」応答をするAIを「自我」や「人間性」を持っているとみなす人は少なからず出てくるでしょう。今はまだAIは便利なツールにしか過ぎませんが、いずれは人と区別できない応答をするAIは現れるはず。人とAIが交じり合う世界においては、人間だからAIだからと、その属性だけで判断するのではなく、お互いの言動や相関性を通じて相手に「自我」や「人間性」があるかどうか判断するようになるのではないでしょうか。

謙虚さに立ち返ることが「真に豊かな人生」への第一歩。

巳波:ご専門の立場から、AIとともに「真に豊かな人生」を送るために必要なものは何だとお考えですか?

舟木:19世紀デンマークの思想家セーレン・キェルケゴールは、一般に実存哲学の祖と呼ばれていますが、本来は、まさに自己の在り方、真の人間の在り方を本質的に問うた人だといえます。その歴史的な背景には、イギリス産業革命によって、大量生産、大量輸送、大量消費がもたらされ、社会と人間の在り方に、現在のAI、DX(デジタルトランスフォーメーション)に匹敵する、もしくはそれ以上に大きな変化が起こったことがあります。

それまでは、生産者と消費者の顔が見える交わりのなかで、社会や人間関係が形成されていましたが、機械化によって労働者が単なる労働力となってしまい、非主体的で責任性のない、無名化した社会となっていきました。そんな社会の非「人間性」、取り換えのきかないはずの人間が取り換えのきく道具のようになってしまう危険性をいち早く察知し、キェルケゴールは警告を発したといえます。

産業革命によって、イギリスでは大きな格差が生まれます。しかし一方で、労働者の権利を守るための運動も誕生し、当たり前の人の在り方を取り戻す努力が始まりました。AI、DXの進展でその知識・能力がある人々や組織にのみ利益が集中し、新たな格差が生み出されないためには、私たちは誰一人として不要な人はおらず、それぞれが違う個性を有し、取り換えのきかない存在として互いをリスペクトするという認識が大切です。AIとともに「真に豊かな人生」を送るには、その重要性を教育のなかで繰り返し訴え続けていく必要があります。

AIとキリスト教はもちろん音楽についてなど、対談後も話はつきません

巳波:確かに教育が大きく関わってきますよね。私のモットーは「なんでも面白がってやろう」と「なんでも役に立たせてみせる」なんです。最初は興味のない対象であっても、それを楽しんでいる人がいるのであれば、何か面白いところがあるに違いない。自分もそれを知れば人生で楽しめることが増える、そんなスタンスで取り組んでいます。AI教育もアンテナを広く張って学び、どこにどのようにAIを役に立たせてみせるかを常に考えることが重要です。AIを活用してみることから始め、いずれやってくるであろう人とAIの境界が曖昧になってくる世界で、相手への先入観なく良い関係性を築こうとすることが、「真に豊かな人生」につながっていくのではないかと思います。

また、舟木先生とお話して、人間は不完全なものであるということを全面肯定するという、その考え方が重要だと改めて思いました。理系的な研究はというと、ある種完璧なものを求めていかないといけないし、AIについても少なくとも現時点では不完全さを肯定することはできません。AIは、近い将来人間と変わらない対話もできるようになると思います。そこに不完全さが見えたとき、完璧でない道具は要らないと捨て去るのか、もしくは感情移入して、不完全だけど肯定しようと思えるのか。後者の考え方が進めば、AIと共存できる社会、今よりさらに多様なものが共存できる社会ができるんじゃないでしょうか。

舟木:一方でAIが社会に浸透していくと、いろいろな課題も出てくる可能性があります。それに対して何が起こるかを予想することも大事なのですが、どんな変化が起こっても、ゆるぎないものを持っておくことも必要です。宗教は、まさしく何千年の歴史のなかで、人類が経験してきた大きな社会変化のなかでもなくならずに残ってきたもののひとつです。これは常に時代に即した形で、人間がどうあるべきかという課題を真剣に問うてきたからだと思います。神話なんてただの物語だと思われがちですが、その役目は人間共通の課題をよりよく伝えるための表象だと捉えると、いろんなヒントが出てくるのかもしれません。

巳波:そうですよね。単に役に立つことだけを追求すると、やはり近視眼的というか、頭打ちになります。人間は、不完全なものも許容しつつ、長期的な視点で社会全体をより良くしようとする知能や人間性を持っている。人間はこれを意識して深めていくことが大事ですし、短期的な合理性だけを持つAIでは思い浮かばないところだと思います。

舟木:合理性や完璧ばかりを追求し、それができた人たちだけが勝ち組になる形じゃなく、世界は多様性に満ちていることを理解し、そのなかで一人ひとりの尊厳が大事にされる社会をどう構築するべきかを常に問うていく。地道な作業かもしれませんが、それが人間の本来の在り方だということを伝えることこそが、教育であり、宗教の担ってきた役割なのだと、巳波先生とお話して改めて理解できました。

コロナ禍により、私たちは一人で生きているのではなく、多くの人々との関係性のなかで、互いに助けられながら生きている、生かされているという、いわば当たり前の事実を実感したように思います。「真に豊かな人生」を歩むためには、その事実にすべての人々が謙虚に立ち返ることが第一歩のように思います。

取材対象:巳波 弘佳(関西学院大学工学部 情報工学課程 教授)/舟木 讓(関西学院大学経済学部 教授、宗教主事。前関西学院長)
ライター:三浦 彩
運営元:関西学院 広報室