WELL-BEING

富との向き合い方を考える |聖書に聞く #14

木原 桂二商学部准教授・宗教主事

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

マタイによる福音書6章24節後半(聖書協会共同訳)

私たちは日常生活の中で、必ず何かに仕えて生きています。家庭や職場に限らず、趣味の領域でさえ誰かの指示を仰がねばならないことがあります。ある共通の目的を果たし、円滑な人間関係を築くためには、私たちが正しく仕えることが求められます。しかし一方で、どんな指示に対しても無批判に聞き従えばよいわけではありません。上司が部下に対して不正行為を求める会社があったらどうでしょう。顧客に偽りの情報を与えて利益を貪ろうとするような指示であれば、当然、従ってはならないはずです。けれども世の中では、この種の問題が頻繁に起きているのです。

あるときイエスは、神と富の両方を主人として仕えることはできないと教えました。一体、この教えは何を意味しているのでしょうか。どうして、神と富は対立していると考えられるのでしょうか。そもそも神とは、いかなる存在なのでしょうか。目に見えない神に、どうして仕えることができるのでしょうか。また、富に仕えるとは、どういうことなのでしょうか。

よくよく考えてみると、富に仕えるのは、おかしいような気がします。なぜなら富は、人間が利用するものであって、常に人間が主人になるはずのものだからです。お金は、その典型的な例と言えるでしょう。お金を使うことによって商品を手に入れたり、サービスを受けたりすることができます。私たちがお金の支配下におかれるとしたら、それは明らかに異常な事態です。

ところが私たちの社会には、お金を独占し、お金に仕えようとする人がいます。たとえば、大金を得るために人を騙す詐欺師や、お金の力を使って賄賂のやり取りをする人たちは、お金の支配下にあると言えるでしょう。あたかも、お金に万能の力があるかのように考えて自分の魂をお金のために差し出しているのです。このような間違った富との向き合い方が、なかなか解消されない現実があります。

だからイエスは、富ではなく神に仕えるように教えました。イエスが語る聖書の神は、天地万物と命の創造者であると信じられています。イエスによると、この神は見返りを一切人間に要求することはなく、すべての恵みを与えてくださっているのです。そのような神の恵みを独占したり、暴力で奪おうとしたりする行為が間違いであるのは言うまでもないでしょう。イエスが教えてくださったように、神からの恩恵に心から感謝し、それを隣人との平和的な関係のために有効活用したいものです。

Profile

木原 桂二(KIHARA Keiji)

西南学院大学神学部卒業。関西学院大学大学院神学研究科博士課程後期課程修了。博士(神学)。日本バプテスト連盟宝塚バプテスト教会、北山バプテスト教会牧師を経て、現在、関西学院大学商学部准教授・宗教主事。著書に『ルカの救済思想 断絶から和解へ』、『1冊でわかる聖書66巻+旧約続編』(共著)他。

運営元:関西学院 広報部

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