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数える人と数えられる人 |聖書に聞く #16

平林 孝裕国際学部教授・宗教主事

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。(中略)ヨアブは調べた民の数を王(ダビデ)に報告した。剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。民を数えたことはダビデの心に呵責となった。

サムエル記下24章1、9、10節

2020年代にはいってから新聞、テレビの報道で、「◯◯人」というニュースを見聞きすることが非常に多くなった気がします。新型コロナ・ウイルス感染症の流行で大学も閉鎖され、授業も動画配信、ほぼ自宅で過ごす日々。毎日報道で見ていたのは、とめどなく流される感染者などの数、そしてその数を示すグラフでした。ロシアによるウクライナ侵攻、ハマスのイスラエル攻撃とそれに続く報復でも、毎日「〇〇人」と報じられました。さらに、新年早々に起きた能登半島での震災。その数の、いわば、数の洪水に心が痛くなるのは私だけでしょうか。

アマゾンに住むピダハンという人々は数を持たない、というか、ごく限られた仕方でしか数を認識していないそうです。私たちのような数の言葉と文化は人間に生得的に備わっているものでなく、習得するものだということが指摘されています(ケレイブ・エヴェレット著『数の発明』)。

そもそもですが、数を数えるとはどういうことでしょうか。リンゴがあって、指を折っていきます。5本の指があり、そして5という数字です。「リンゴが5つ」です。するとリンゴをあと2つとか2つ足りないと言えるようになります。でも、リンゴ5つを、一つ一つよく見るなら、同じリンゴでも大きさも違うでしょうし、同じような大きさでも色合いが、またかじれば味も違うことでしょう。そう、数えることは、よく見ない、あえてよく見ないことで成立することがわかります。

楽しい出来事、また先に述べた痛ましい出来事、どちらでもしばしば人の数が数えられます。そして統計、グラフになり、誰も彼もまた彼女も、1、1、1、…となります。人を数えるということは、このような乱暴なところがあります。人生の喜びも希望も哀しみも、生も死もすべて同列に扱われます。そこには幸せも不幸せもへったくれもありません。それゆえ本日の聖書箇所のように、数えるという誘惑に抗えなかったダビデは心に呵責を感じることになったのです。それぞれに異なった人々の幸せに心をくだき、不幸せを厭うべき為政者が、民を粗雑に同列化して、1、2、3、…、たくさんと数えたのですから。数える人は、すでに顔のない平準化された人間を見ることになります。他方、数えられる人間は自分の顔を奪われ、失っています。

今日では、何を考えるにも数えること、例えば、統計をとることは非常に重要です(その労苦については、五十嵐元道著『戦争とデータ』に詳しいです)。しかし、その有用な行為によって、こぼれ落ちるものがあることを、人は数える側となるときに心にとめ、数の彼方にあるものに思いを馳せる細やかさも求められているのではないでしょうか。そのことを本日の聖書の言葉、ダビデの悔恨から学びたいと思うのです。

Profile

平林 孝裕 (HIRABAYASHI Takahiro)

東京生まれ、大学進学まで信州上田で育つ。筑波大学第一学群人文学類卒業、同大学院博士課程哲学・思想研究科単位取得退学。1998年に関西学院大学神学部教員となり、2010年より国際学部教授・宗教主事。国際学部長(2018~20年度)。編著書に『愛を考える キリスト教の視点から』(共著)、『デンマークの歴史・文化・社会』(共編著)など。

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