日米同盟は両国にどのような影響を与え合ってきたのか。その変遷とこれから|今、あらためてアメリカを知る #2
世界の政策や経済に大きな影響を与えている大国アメリカ。2024年には大統領選挙が行われ、いつにもましてその動向が注目されました。そこで「月と窓」では、政治、外交、経済、文化を切り口に、アメリカを読み解く記事を4回連載でお届けします。第2回となる今回のテーマは日米同盟。歴史学の観点も取り入れながらアメリカ合衆国と国際社会の関係を研究する井口治夫先生に、日米同盟のはじまりや変遷、今後の展開などについて伺いました。
Profile
井口 治夫(IGUCHI Haruo)
関西学院大学国際学部 教授。米国ブラウン大学卒業後、銀行勤務後にシカゴ大学大学院社会科学研究科歴史学専攻を修了。博士(国際関係史)。ハーバード大学のポスト・ドクトラル・フェローや同志社大学アメリカ研究所の専任教員や名古屋大学教授などを経て、2015年より現職。専門はアメリカ史、アメリカ政治・外交、安全保障、日米関係。著書に『誤解された大統領: フーヴァーと総合安全保障構想』(名古屋大学出版会)などがある。
この記事の要約
- 第2次世界大戦後、連合軍の占領下という状況下で日米同盟が始まった。
- 日米同盟を考えるには自衛隊や憲法第9条もあわせて見る必要がある。
- 日米同盟の転換期は3つ。最も影響があったのは第3次安倍政権時代。
- 問題解決に役立つ外交力を構築することが日本の今後の課題。
1951年の日米安全保障条約が日米同盟の出発点
2024年に日本とアメリカのリーダーが代わることが決まりました。石破茂首相とドナルド・トランプ大統領の相性はどうなのか、今後の日米関係はどうなるのかということに関心が高まっています。そもそも日米関係のベースとなる日米同盟とは何なのでしょうか。井口先生は、日米同盟を考えるには、その根幹となる日米安全保障条約だけでなく、自衛隊や日本国憲法第9条もあわせて見る必要があると話します。
「1951年の サンフランシスコ講和会議で、吉田茂首相(当時)が日米安全保障条約に署名しました。当時の日本は連合国の占領下という特殊な状況にあったのですが、本条約によって、日本の主権が回復したあともアメリカ軍は継続して日本国内に駐留できることとなりました。でもアメリカ軍は日本に駐留こそするものの、日本を防衛する義務については曖昧でした。その後1952年に日本が主権を回復して独立国家になると、なぜアメリカ軍が日本にいるのか?どんなメリットがあるのか?といったことが議論されるようになりました。そして、より対等な関係を求めて1960年に日米安全保障条約が改正され、アメリカは日本を防衛する義務を負うことになったのです。しかし、当時すでに日本には自衛隊があったため、また議論を生むことになりました」
自衛隊が発足したのは、日本が独立国家になった2年後の1954年。戦争の放棄を規定した憲法第9条の精神に則り、相手から攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使する専守防衛の考えに基づいて日本の平和と独立を守ることを目的としています。1960年の改正では、アメリカによる日本の防衛義務が提示された一方で、日本が他国から攻撃を受けた場合、自衛隊は自国だけでなく、日本国内のアメリカ軍基地も守る義務があるとしています。これに異を唱えるために起こったのが、安保闘争と呼ばれる激しい反対運動です。その後、池田勇人内閣が「国民所得倍増政策」を策定し、高度経済成長期に入ったことで国民の関心は経済発展に移り、自衛隊の問題は影を潜めることに。井口先生によると、この高度経済成長にも日米同盟の影響があると言います。
「日米同盟のメリットのひとつは、日本の経済成長に必要なマーケット・アクセスを、アメリカを利用することで形成できたこと。当時、ヨーロッパの国々は日本製品に対してなかなか市場を開放しませんでしたが、アメリカは気前がよく、1953年の日米友好通商航海条約締結によって日本はアメリカへの輸出の道を確保し、さらにヨーロッパ各国に市場開放の仲介も行ってくれました。もうひとつのメリットは、アメリカ主導の世界銀行などから経済援助を受けられたこと。それらの融資で高速道路網や火力・水力発電所、世界最先端の鉄工所、新幹線の整備などができました。もちろん、日本人の自助努力もありますが、日本の製品や経済の発展をアメリカが後押ししたのです」
第3次安倍政権時代が日米同盟の大きな転換期
その後の日米同盟について、井口先生は3つの転換期があったと話します。1982年から1987年にかけての「ロン・ヤス時代」、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件、第3次安倍内閣の時代(2014年12月~2017年11月)です。
「ロン・ヤス」とは、当時の中曽根康弘首相とロナルド・レーガン大統領が「ロン」「ヤス」と呼び合うほど良好な関係を築いたことに由来します。旧ソ連の脅威に対してにらみを効かせる意味もあり、日米同盟と防衛力の強化が図られました。ロン・ヤス時代後の1990年には第1次湾岸戦争が勃発し、国際社会に対する日本の貢献が課題になりました。
「湾岸戦争時、日本はクウェートに経済援助をしたにも関わらず、国際的にはあまり認められませんでした。このことは日米同盟を推進する人たちにとってトラウマになったのです。もっと国際貢献をしなければ、そろそろ自衛隊を活用した貢献をしなければ…という議論が起こり、1992年に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(通称PKO法)が制定されました。以降、カンボジアへの自衛隊派遣など、自衛隊が海外で国づくり支援に携わるようになりました」
そんな中、アメリカ同時多発テロ事件を受けて対テロ戦争が勃発。自衛隊は、インド洋でのアメリカ艦艇への洋上給油やアフガン難民の救援活動など活動の幅を広げていきました。
そして、井口先生がもっとも大きな転換期と指摘するのが第3次安倍内閣の時代です。「国際法上、自国と密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が直接攻撃されていなくても反撃できる権利」、いわゆる集団的自衛権の行使に関してはずっと曖昧にされてきましたが、それを変えたのが2015年の安全保障関連法案(平和安全法制)の閣議決定、法案成立だといいます。
「日本国内にあるアメリカ軍の基地は、国際法上はアメリカの領土です。1960年の安保改正で、他国から攻撃を受けた場合、自衛隊は日本国内のアメリカ軍基地も守る義務があるとしていますが、内閣法制局は“集団的自衛権は理論的には可能だが運用上はできない”という解釈を示していました。ところが、安倍政権は平和安全法制関連2法案を決定し、集団的自衛権を限定的に認めたのです。具体的には、特に日本国内のアメリカ軍基地が攻撃を受けた場合、日本はアメリカ軍と一緒になってアメリカ軍基地を守るとしました。このことからも、安倍政権期は、日米同盟、日本の安全保障において大きな転換期だったといえます」
今も同盟には日米双方にとってメリットがある
日米安全保障条約の締結から70年以上経った今も、日米同盟は変わらず続いています。アメリカにとって日米同盟はどのような意味があるのでしょうか。井口先生は「アメリカから見ると日本は便利なんです」と話します。「日本は政治的にも経済的にも安定していて、何よりロケーションがいい。朝鮮半島や台湾に近いし、北米以外で最大の米軍飛行場である沖縄の嘉手納(かでな)基地は中東までカバーできます」
そして、現在の日本にとっても「アメリカ軍のマンパワーがないと日本の防衛は成立しない」と井口先生は指摘します。「今は防衛大学も自衛隊も定員割れしていて、自衛官の数は約25万人。中国は陸軍の現役兵力だけで約100万人いるといわれ、マンパワーが桁違いです。それを補うのがアメリカ。自衛隊だけで日本すべてを防衛するのは難しいでしょう。財政破綻してしまいますから」
トランプ大統領の再就任後の日本との関係についてたずねると、「基本的には日米関係は変わらないでしょう」と井口先生は言います。ただ、「トランプ大統領は相手の出方を見て態度を大きく変える傾向があります。安倍政権時は上手に対応したことで、日本に対する風当たりは強くありませんでした。次は石破首相。アメリカだけでなく、日本にも守るべき国益があるので、石破首相がトランプ大統領を懐柔できるかどうかにかかっています」
最後に、日米同盟の今後の課題や展望を聞いてみました。最初に挙げられたのは、日米同盟を利用して日本の技術力を高めることへの期待です。アメリカの軍事技術とコラボレーションして軍民両用技術の開発を進めれば、日本独自の高性能技術を開発することも可能です。ただし、そのためには技術者や特許に詳しい弁護士の養成もあわせて進める必要があります。その他、これからも日米関係を良好に保つために、日本には情報収集力や外交力が必要だと井口先生は語ります。
「日本にも情報機関が必要だと感じます。国家公安委員会や自衛隊の情報機関、内閣府の調査室はありますが、アメリカの情報機関からの情報に依存している印象を受けます。世界の争いは武力によるものだけでなく、電子の世界にも発生します。これに対応するために、人工衛星を導入してサイバー空間をハッキングできる部隊をつくることで、電子戦争に対処できる可能性もあります。さらに、日本にとって大切になるのは交渉力です。世界情勢が不安定な状態が続く中、日本は、外交で紛争や問題を解決する力を構築することが求められるように思います」
取材対象:井口 治夫(関西学院大学国際学部 教授)
ライター:ほんま あき
運営元:関西学院 広報部
※掲載内容は取材当時のものとなります