アメリカ映画から読み解く性の政治学|今、あらためてアメリカを知る #4

CULTURE

アメリカ映画から読み解く性の政治学|今、あらためてアメリカを知る #4

世界の政治や経済に大きな影響を与えているアメリカ。2024年には大統領選挙、そして2025年1月には大統領就任式が行われ、いつにもましてその動向が注目されました。そこで「月と窓」では、政治、外交、経済、文化を切り口に、アメリカを読み解く記事を4回連載でお届けします。今回取り上げるのは、アメリカ映画とその文化について。アメリカ映画の性の政治学を研究する塚田幸光先生に、映画に隠されたさまざまなメッセージについてお聞きしました。

Profile

塚田 幸光(TSUKADA Yukihiro)

関西学院大学法学部・大学院言語コミュニケーション文化研究科 教授。博士(言語コミュニケーション文化)。ハーバード大学ライシャワー日本研究所客員研究員や防衛大学校准教授などを経て、2008年より現職。専攻は映画学、表象文化論、アメリカ研究。近年はニューディールの文化政策を中心に、政治と文化の関係性を研究している。著書に『シネマとジェンダー アメリカ映画の性と戦争』(単著、臨川書店)、『クロスメディア・ヘミングウェイ アメリカ文化の政治学』(単著、小鳥遊書房)、『メディアと帝国 19世紀末アメリカ文化学』(編著、小鳥遊書房)など。

この記事の要約

  • 映画の「向こう側」を見る。映画は時代を写す割れた鏡。そこに文化や政治、歴史などの意味を読み込む。
  • ベルリン国際映画祭での『千と千尋の神隠し』と『ブラディ・サンデー』の金熊賞受賞の「意味」とは?
  • ニューディールの文化と政治の結節点となる映画『フットライト・パレード』。
  • 自閉するアメリカを批判的に見る「アメリカン・ニューシネマ」。
  • “強いアメリカ”に疑問を投げかけるアメリカ映画。

9.11とベルリン国際映画祭

映画は、感動や楽しさを届けてくれるメディアです。ですが、深く読み解くことで、思わぬメッセージが浮かび上がることがあります。議論のイントロとして、塚田先生は、2002年2月のベルリン国際映画祭を例に挙げました。

「2002年2月といえば、9.11の同時多発テロから約半年です。そのタイミングで、宮崎駿監督の長編アニメ『千と千尋の神隠し』と北アイルランド紛争をテーマにした『ブラディ・サンデー』が、最高賞である金熊賞を同時受賞しました。2本同時の受賞は珍しいのですが、日本では『千と千尋の神隠し』ばかりが話題になりました。ベルリン国際映画祭は社会派の骨太映画祭として知られています。では、なぜ2本同時受賞だったのでしょうか?」

『ブラディ・サンデー』(Bloody Sunday/2002年)は、1972年に北アイルランドで起こった「血の日曜日事件」を取り上げた作品です。北アイルランドでは、小数派のプロテスタント(支配層)と多数派のカトリック(被支配層)との宗教的な対立が続き、1960年末ごろから衝突が激化。IRA(アイルランド共和国軍)が武力闘争を始めました。そんな背景のもと、1972年1月30日(日曜日)、カトリック系市民のデモ行進に対して、英国政府はそれをテロと誤認して軍隊を投入します。非武装の市民27名が銃撃され、14名が死亡するという悲惨な出来事が起こったのです。

「英国の恥部ともいえる事件を再現した『ブラディ・サンデー』のメッセージとは何でしょうか? それは英国人でありキリスト教徒でありながら、宗派が異なるだけで殺しあう“共生の拒絶”を表しています。一方、ファンタジックなアニメーションである『千と千尋の神隠し』は、異形のものであっても、共に生きることができる、という“共生の受容”の物語です。9.11のテロからわずか半年、映画祭は、この2本を世界に示します。共に生きますか、それとも、共に死にますか、と」

もちろん、『千と千尋の神隠し』が国際的に高く評価されたことは、日本人として誇らしいことです。ですが、それだけに目を向けていては、映画祭のメッセージに気づくことはできません。「当時、日本の新聞やテレビなどは、『ブラディ・サンデー』のことは取り上げませんでした。同時受賞の意味こそ読み解かなければいけないのに、残念です」と塚田先生は振り返ります。

アメリカとは何か。ニューディールの文化政策

映画は、時代や社会を色濃く映すこともあれば、まったくその逆で、メッセージを暗示するだけのときもあります。「単なる文化論に留まらず、その向こう側にあるもの、歴史の闇みたいなものからメッセージを拾いたい」という塚田先生が、次に挙げた作品は1933年にアメリカで公開されたミュージカル映画『フットライト・パレード』(Footlight Parade)です。同作には巨大なプールが登場し、数多の女性による水中でのパフォーマンスが圧巻な作品ですが、露骨に政治性が現れた作品だといいます。

映画『フットライト・パレード』の宣伝用カード(Warner Bros、1933年)

「『フットライト・パレード』では、マスゲームで出現するルーズベルトの顔や国旗など、アートがポリティクスに接近する瞬間が多く描かれます。そのなかでも有名なのが、宣伝用カードにも見られるプールでのコレオグラフィ(振付、構成、演出)。女性たちが歯車やタービンを模倣することで、幾何学的なデザインの一部になります。集団が個になる。ニューディールの映画なのにファシズム的です。ここで興味深いのは、そもそもなぜ砂漠の街ロサンゼルスで、水の映画がたくさん作られるようになったかです。その理由もまた政治的なんです」。1929年の世界恐慌、経済の低迷と不況、砂漠の街ロサンゼルスにつくられた数多のプール、そして水の映画……。その背景には、フランクリン・ルーズベルト政権によるニューディール政策があったと、塚田先生は言います。

「雇用を促進するために、ニューディール政策で公共事業が進められました。その一つにコロラド川から水をひく灌漑(かんがい)事業があり、それによってカリフォルニア州に水が供給されるようになったのです。結果、砂漠の街は水の楽園に変貌し、ビバリーヒルズにはプールがつくられ、スクリーンには水の映画が溢れます。ニューディール政策があったからこそ、水の映画が生まれたといえます」

ニューディール政策は、上記のような公共事業や銀行救済で知られていますが、塚田先生によると、“アメリカとは何か”を定義する文化政策も行っていたといいます。

「ルーズベルトのニューディール政策では、アメリカの文化が収集、生成されて、プロパガンダの政治的なツールになります。たとえば、FSA(農村安定局)のドキュメンタリー写真、OWI(戦時情報局)のプロパガンダ映画、FWP(連邦作家計画)の地誌編纂やフォークロア収集など、これらは同時代のアメリカを可視化する文化政策です。大衆文化を記録し、アメリカの多様性・雑種性をナショナリズムのなかに取り込み、“アメリカとは何か”を文化的な側面から国民に示したのです。これは銀行救済や公共事業と表裏の関係にあり、アメリカをメディアの側から再定義する試みでした」

「強いアメリカ」への懐疑。ニューシネマとゲイ・カウボーイ

「“アメリカとは何か”のケーススタディをしましょう」と、塚田先生。「ニューディール時代に作られた映画制作倫理規定(ヘイズ・コード)は、性や暴力描写を禁じました。ニューディール時代の映画は不自由なアートだったのです。ですが、このコードが1968年に廃棄されます。すると、とても興味深い“アメリカ”がスクリーンに出現します」

ニューシネマ(ニューハリウッド)とは、ベトナム戦争の裏側で生じた映画的な「現象」です。『俺たちに明日はない』や『イージーライダー』などが有名です。性や暴力を描きながら、そこにアメリカへの批判や懐疑も示しています。塚田先生が取り上げたのは『真夜中のカーボーイ』(Midnight Cowboy/1969年※)。この映画は第42回アカデミー賞作品賞を受賞した作品で、テキサスの片田舎からカウボーイスタイルに身を包んでニューヨークに出てきた青年をジョン・ヴォイトが、ニューヨークのスラム街に暮らす足が不自由なペテン師をダスティン・ホフマンが演じました。一見すると、普通の友情物語です。

※原題「Midnight Cowboy」の邦題は、本来ならば「カウボーイ」だが、1969年の公開時より「カーボーイ」として上映された。映画評論家の水野晴郎が、「カー」の方が疾走感があると主張し、「カーボーイ」という邦題になったという逸話は有名。ちなみにジェイムズ・レオ・ハーリヒイの原作は、邦題が『真夜中のカウボーイ』である。

映画のオープニング、そこに映るのは「真っ白なスクリーン」。耳をすますと、カウボーイの戦闘シーンの「音」が聞こえます。「かつてドライブイン・シアターで上映されていた西部劇が、もはや時代遅れであることを示しています。だから何も映らない。カウボーイの残響だけが聞こえるんです」と、塚田先生。続いて、ジョン・ヴォイトのシャワーシーン、さらに彼が鏡に向かってポーズを取るカットバック(※)。「映画の場合、最初の5分間が非常に大切。そこに表現したいことの骨子が表れます」と、塚田先生。この冒頭シーンから、何が読み取れるのでしょうか。

※シーンを交互に切り換える映像手法。

「アメリカの映画の冒頭で、男性の裸体が映されるのはこの作品が最初です。それまで裸の被写体と言えば、男性の欲望の対象とされる女性、ですね。なのに、男性のシャワーシーンが映され、さらに彼は鏡を何度も見て自己確認しています。それもカウボーイ・スタイルをキメて。では、なぜカウボーイが鏡を見るのでしょうか?鏡像は、自己の分裂や内面の葛藤を示すメタファーです。実際、彼はトラウマをかかえており、性的アイデンティティも不安定な人物です。カウボーイなのにレイプや虐待のトラウマに怯え、男らしく振る舞えない」

「本来、カウボーイはアメリカの強さや正義の象徴です」と、塚田先生。「ですが、『真夜中のカーボーイ』で描かれるカウボーイはそうではありません。彼はトラウマを抱え、過去に怯え、カウボーイ的な強さとは対極です。映画が公開された1969年はベトナム戦争の真っ只中(1975年に終結)。軍服姿のジョン・ヴォイトが一瞬映るだけで、戦争は直接的には描かれません(彼のトラウマは、帰還兵としてのそれと二重写しになっています)。『真夜中のカーボーイ』は、“カウボーイ”を逆説的に描くことによって、アメリカ的な強さを性の側から否定する映画なんです。鏡像のカウボーイとは、自閉するアメリカの象徴ですね。加えて、彼(ジョン・ヴォイト)はゲイ(同性愛者)にも、ヘテロ(異性愛者)にもなれる。強さの象徴であるカウボーイが、ゲイ的なカウボーイに変貌しているんです」

自閉するアメリカは、性的アイデンティティが不安定な主人公に投影されています。そこには「強いアメリカ」は存在しません。『真夜中のカーボーイ』は、ジェンダーやセクシュアリティを通じて、アメリカ批判を試みています。塚田先生によれば、この流れはその後も続いているといいます。「『ブロークバック・マウンテン』(Brokeback Mountain/2005年)や『ムーンライト』(Moonlight/2016年)は、“アメリカとは何か”を性の側から問い直した好例です」

アメリカ映画は、自己批判を繰り返します。「“強いアメリカ”に疑問を呈して、“アメリカとは何か”を考える。その映画的な方法の一つがゲイ・カウボーイなのかもしれません」と、塚田先生。2025年、“Make America Great Again”をスローガンに掲げるトランプ氏が大統領に返り咲きました。そんなトランプ大統領の政権下で、娯楽に留まらない社会的なメディアとして、これからどのような映画が生み出されていくのか、注目していきたいところです。

取材対象:塚田 幸光(関西学院大学法学部 教授)
ライター:ほんま あき
運営元:関西学院 広報部
※掲載内容は取材当時のものとなります

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