魂はいつでもジェンダー・フリー? |聖書に聞く #28
柳澤 田実神学部 准教授
関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。
戸を開いたときには、恋しい人は去った後でした。恋しい人の言葉を追って わたしの魂は出て行きます。求めても、あの人は見つかりません。
雅歌5章6節
ジェンダーに対する人々の関心が高まっている。たとえばSDGsで掲げられている17の目標の中で、1番目に貧困をなくすこと、5番目にジェンダー平等が位置付けられているが、若者の関心は貧困よりもっぱらジェンダーに向いている。とりわけLGBTQなどの性的マイノリティに対する若者の関心の高さは、1970年代のニューヨーク生まれで、小さい頃から性的マイノリティの存在に何の違和感も抱いていなかった私でも驚かされるものがある。
この現象の要因としては、性が誰もが当事者として考えられる問題であること、生物としての生存本能に関わる問題であること、メディアの影響や単なる流行など、いろいろな可能性を挙げることができそうだ。いずれにしてもこうした関心の高まりの中で、元々「男らしさ」「女らしさ」などのジェンダー規定がきついとされる日本文化の中でも、BL(※)が一般化したり、女性アイドルが「ぼく」や「オレ」のような男性一人称を使うようになったりと、いろいろ興味深い現象が起きている。
※ボーイズラブの略。男性同士の恋愛模様を題材とした作品のジャンルを指す。
しかし、思えば昭和の演歌には男性が女性の歌を歌う「女歌」や女性が男性の歌を歌う「男歌」があったし、ジェンダーを交換した表現(「ジェンダー交差歌唱」)自体はさらに古く、奈良時代の万葉集にまで遡る。邦楽の専門家である増田聡氏、中河伸俊氏によると、こうした日本文化の特徴は、西洋の研究者からはどちらかというと後進的だと捉えられてきたそうだ。歌があくまでも「自己表現」である西洋では、曲の主人公のジェンダーと歌い手のジェンダーが乖離することはほとんどないというのである。
しかしながら西洋文化の土台となっているキリスト教文化の中には、実は「ジェンダー交差歌唱」と呼べそうなものがある。それは今回冒頭に引用した旧約聖書の『雅歌』という恋愛詩を元に発展した解釈史の中にある。
古代、中世の修道士たちは、おそらく偶然、聖典に収められたこの恋愛詩を、自分の魂と神の間にある愛の関係として解釈した。この自由な発想は近世以降衰えていったが、その原因は、歌が自己表現になったからというわけではなさそうだ。なぜなら当時の修道士たち(老若の男性)は、自分の魂と神との親密でパーソナルな関係を追究する中で、まさに「自己表現」として、自分と花嫁を重ねることを相応しく感じていたと推測できるからだ。人間は、精神的な次元においては、いつの時代も、どのような文化的背景においても、自由に生物学的性差を超えることができたのだろう。
Profile
柳澤 田実(YANAGISAWA Tami)
1973年ニューヨーク生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)、南山大学准教授などを経て、関西学院大学神学部准教授。専門は哲学・宗教学。訳書にターニャ・M・ラーマン著「リアル・メイキング いかにして『神』は現実となるのか」(2024年、慶応義塾大学出版会)。
運営元:関西学院 広報部