臆することなく自分を愛しなさい |聖書に聞く #29
嶺重 淑大学宗教主事、人間福祉学部教授・宗教主事
関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。
第一の戒めは、これである。「聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 第二の戒めはこれである。「隣人を自分のように愛しなさい。」
マルコによる福音書12章29節b-31節a
「律法(※)の中でどの掟が最も重要でしょうか」という律法の専門家の問いかけに対し、イエスは第一に神を愛すること、そして第二に隣人を愛することを挙げています。ここで覚えておきたいことは、イエスが「神への愛」と「隣人への愛」を不可分なものと見なしていることであり、さらには、当時のユダヤ社会ではユダヤ人同胞に限定されていた「隣人」の概念を、すべての人を対象とする広い意味で捉え直していることです。
※神の意志による教えと戒めのことで、特に創世記をはじめとする旧約聖書冒頭の五書の内容を指している。
ところで、今回注目したいのは「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という第二の戒めの「自分を愛するように」という部分です。伝統的に謙遜の美徳が重んじられ、公の場で自分を誇示したり自己主張することがタブー視されてきた日本の社会においては、「私は自分自身を愛しています」などとは決して言えない空気があり、「自己愛」は明らかに否定的な意味で捉えられてきました。そして、おそらくそのために、この聖書の言葉はしばしば、「自分を愛するのではなく隣人を愛しなさい」、あるいは「自分を愛する以上に隣人を愛しなさい」という意味で解されてきたようです。
しかし、イエスは果たして自分を愛すること(自己愛)を否定したのでしょうか。少なくとも聖書本文からはそのようには読み取れません。また「自己愛」とは「利己愛」のことではありません。「自分を愛する」とはむしろ「自分を大切にする」ことなのです。時として、キリスト教は自己否定の宗教であるかのような言い方もされますが、これは大きな誤解であり、むしろ本来のイエスの教えは自己を肯定し、生かしめようとするものなのです。
著名な社会心理学者であるエーリッヒ・フロムは、自分自身を肯定すること(自己愛)は私たちが生きていく上で必要不可欠であり、その一方で貪欲な利己心は、まさにこの自己愛の欠如から生じると述べています。そのように、本来の自己愛は決してエゴイズムではなく、むしろ自分自身を神の器として大切にし、生かしめていくことを意味しています。昨今では日本でも「自尊感情」や「自己肯定感」が重視されるようになってきましたが、まさにこの聖書の言葉はその点を大切にするように訴えています。もちろん、自らの自己愛が利己的な愛に変質していないか、常に検証していく必要はありますが、このイエスの言葉は、隣人を愛すると共に、自分自身をも積極的に肯定し、愛するように求めているのです。
Profile
嶺重 淑(MINESHIGE Kiyoshi)
早稲田大学第一文学部卒業、関西学院大学神学部卒業、同大学院博士課程前期課程修了、スイス・ベルン大学プロテスタント神学部にてDr. Theol.(神学博士号)取得。日本キリスト教団泉北栂教会担任教師等を経て、現在、関西学院大学人間福祉学部教授。著書『聖書の人間像』、『キリスト教入門』他。
運営元:関西学院 広報部