限定のない隣人愛に向かって |聖書に聞く #31
水野 隆一神学部 教授
関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。
隣人を自分のように愛しなさい。
レビ記19章18節
「隣人愛」を命じているとしてよく知られている箇所です。しかし、レビ記19章をよく読めば、「隣人」とは共同体の正規のメンバー、しかも男性だけを指していたことがわかります。また、その前後、18章や20章には共同体から排除されるべき人のリストも書かれてあります。聖書は長い時間をかけて書かれたいくつもの書物を含むコレクションですので、そこにはいくつもの考え方、時に矛盾することも書かれており、どの考えに基づいて行動するかは、読み手が決めなければなりません。
アメリカのトランプ大統領がDEI(※)を否定する背後にはアメリカの保守的なキリスト教の影響があるといわれますが、DEIを否定しようとする人々は、「隣人愛」の命令よりも、その周辺にある「排除」を命じる箇所を重視しているといえるかもしれません。
※DEIとは、Diversity(多様性)、Equity(公平性)、Inclusion(包括性)を意味し、多様性を尊重し、公平性を確保し、包摂的な環境で誰もが活躍できる状態を目指す考え方です。
残念なことに、「隣人」を限定し、そこに含まれない(と考えられる)人々を排除しようとする動きは新約聖書の中にもありますし(たとえば、ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節)、「異端審問」や「破門」などに見られるようにキリスト教の歴史を通じてあり続けたのです。
では、イエスはどうでしょう? イエスも最初は「限定」を考えていたように感じられる箇所があります(マルコによる福音書7章24-30節)。ティルス地方でギリシア人の女性から、彼女の娘を癒してほしいとの願いを聞いたとき、イエスは、「子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」と言って、彼女の願いを拒否します(27節)。とても冷たい言葉に聞こえます。しかし、女性はイエスの言葉を使って「食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます」と切り返します(28節)。これを聞いたイエスは、「その言葉で十分である」と、女性の願いを認めるのです(29節)。
このエピソードは、最初は民族的に限定されると考えていた神の恵みが、その限定を超えるものだと気づいた「転換点」を表していると私は解釈しています。神の恵みに——キリスト教が信じているように——限定がないとするなら、「隣人愛」にも限定があってよいはずがありません。またイエスに注目するなら、「隣人」とは思われていなかった外国人、それも、男性優位の社会では発言が取り上げられることもなかった女性から新たなものの見方を示されたにもかかわらず、イエスはそれを受け入れました。その姿勢こそ、このエピソードの核心として、今日、とくに注目すべきことのように思われます。
「限定のない隣人愛」は言うは易く行うは難し。まさに、関西学院の校歌「空の翼」の歌詞(3節)にもある「遙けし理想」です。その理想に近付く方法はたった一つ、それまで「隣人」だとは思っていなかった人に出会い、新たな視点と価値観を分かち合うこと。私は、それもまた、イエスに倣うことであると思うのです。
Profile
水野 隆一(MIZUNO Ryuichi)
神学部教授。ヘブライ語聖書(旧約聖書)物語を文芸批評の方法で解釈することを専門としている。ことに聖書物語に表されているイデオロギーを批判的に検討することで、現代の読者にとっての意義を見出したいと考えている。在学中は関西学院聖歌隊に属し、キリスト教合唱音楽の魅力を知る。日本基督教団讃美歌委員会顧問も務める。
運営元:関西学院 広報部