
実は何度もリライトされてきた『太平記』。その背景には、人間くさい願いがあった!?
北村 昌幸文学部 文学言語学科 教授
みなさんは『太平記』を読んだことがありますか。学生時代の国語や日本史の授業のほか、1991年に放送された真田広之主演の大河ドラマなどで、作品名はご存知の方も多いことでしょう。実はこの『太平記』、多くの人の手によってリライト(改作)されているといいます。なぜ、リライトされたのでしょう。『太平記』をはじめとする軍記物語を研究する北村昌幸先生に話を伺いました。

Profile
北村 昌幸(KITAMURA Masayuki)
関西学院大学文学部文学言語学科 教授。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。2005年に関西学院大学に着任、2012年より現職。研究テーマは中世文学、軍記物語、歴史叙述。鎌倉時代から室町時代にかけての軍記物語の研究を行い、特に南北朝の内乱を描く『太平記』を焦点とし、変革期の歴史叙述の方法について研究を行う。著書に『太平記世界の形象』(塙書房、2010年)、『平和の世は来るか―太平記』(共著、花鳥社、2019年)など。
この記事の要約
- 実は、歴史書と物語との境界はあいまい。
- 太平記はリライトを重ね、何種類ものバージョンがある。
- リライトから見えてくる中世日本人の欲望と人間くささ。
- 「嘘でも伝えたい」という人の思いも歴史の一部。
軍記物語はヒストリーでもありストーリーでもある
『太平記』は、南北朝時代の動乱を四十巻にわたって描いた作品です。具体的には鎌倉時代末期の後醍醐天皇の登場から足利義満の将軍就任までの約60年間が該当し、北村先生によると、第一部(巻一から巻十一)は鎌倉幕府の滅亡まで、続く第二部(巻十二から巻二十一)は後醍醐天皇の建武の新政が崩壊するまで、そして最後の第三部(巻二十二から巻四十)は足利一門の内部分裂が収束するまでが描かれていると言います。
「合戦(いくさ)を叙述の中心に据えたものを軍記物語といいますが、『太平記』のほかにも、教科書にたびたび掲載される『平家物語』をはじめ、『保元(ほうげん)物語』『源平盛衰記』『義経記(ぎけいき)』などがあります。そのほとんどは、鎌倉時代や室町時代の作品です」と北村先生。ちなみに、戦国時代の軍記物語は、文学作品というより記録的な性格が強くなり、物語としてのおもしろみが薄れていくといいます。また、戦国時代の終わりから江戸時代にかけて書かれたものもあるということですが、江戸時代になると合戦そのものがなくなるため書かれなくなりました。
物語から記録へと性質が変わっていったという軍記物語ですが、「両者の線引きは難しい」と北村先生は言います。
「英語の『History(歴史)』と『Story(物語)』は、語源が同じです。そのことが示すように、物語と歴史書を明確に分けることはとても難しいのです。これは日本でも同様で、歴史書を書く際でも、何を載せて何を載せないかという出来事の取捨選択には、必ず書き手の主観、つまり自分なりの歴史解釈を伝えたいという思いが入ります。まったく公平な立場で客観的に物事を書くことは不可能だといえます」
『太平記』の場合はどうだったのでしょうか。『太平記』は多くの人の手によって何度もリライトがなされた作品です。そうなると脚色が増えて、物語としての性格が強まると思われますが、それでも書かれた当初は文学作品と捉えていない人も多かったそうです。
「たとえば、室町時代の武将、今川了俊(りょうしゅん)は、『太平記』に難癖をつけた『難太平記(なんたいへいき)』を書いているのですが、その中で、『太平記は思った以上に間違いが多い』『最近書き足しているが、人々の要望を聞いて書かせたので、手柄の記事が数えきれないほどに増えた』などと批判しています。これは、彼が『太平記』を歴史書と捉えていて、歴史書であるからには嘘や書き漏らしがあってはならないと考えたからです。一方、室町時代に貞成親王(さだふさしんのう)が記した『看聞御記(かんもんぎょき)』という記録には、人々が娯楽として『太平記』の朗読を楽しんでいた様子が記されています。人によってはヒストリーでもあり、ストーリーでもあったのだと思います」
室町時代以降になると、具体的な合戦の様子が描かれた軍記物語は戦術の勉強になるためか、戦国大名たちが好んで読むようになりました。実際、毛利元就の息子や孫が所持していた『太平記』の写本も残っています。そして合戦がない江戸時代には、歴史書として読み解かれたと北村先生は言います。「水戸黄門でおなじみの徳川光圀は、日本の歴史書『大日本史』を編纂する際、江戸時代にいたるまでの歴史研究のために『太平記』を分析し、基礎資料として『参考太平記』をまとめさせました」
その後、明治20年代になると、歴史学者の久米邦武が「太平記は史学に益なし」とその史学的価値を否定するなど、批判的な見解も現れました。それでも『太平記』は、時代ごとに異なる読み方をされながら、今日まで人々の関心を集め続けてきたのです。
リライトで先祖の活躍を盛ったり、汚点を隠したり
ところで、全四十巻という長大な物語である『太平記』は、一体どんな目的でつくられ、そしてなぜ何度もリライトされてきたのでしょう。
「軍記物語がつくられる理由はさまざまです。自分の活躍を家の歴史として残すという自叙伝的なものもあれば、合戦に勝った側が自分たちの正しさを証明する、いわば政治宣伝のためにつくったものもあります。『太平記』の場合、かつて京都にあった法勝寺の恵鎮(えちん)上人が足利尊氏の弟である足利直義に献上したと『難太平記』に書かれています。もしかすると、貢ぎ物だったのかもしれません」
そのとき献上されたのは第一部から第二部または第三部はじめくらいまででしたが、足利直義はその内容が気に入らずに書き直しを命じ、修正が終わるまでは世に出してはならないと命じたのだとか。それが1340年代のこと。その後しばらくして第三部以降の書き足しが行われ、1370年代後半にようやく世に出ることになったのです。
「第二部まででは室町幕府が安定していないため、南北朝の動乱が終わるまでを書いて完結させたいとの思いがあり、書き足すことにしたのでしょう。それとともに、第一部・第二部のリライトもずっと行われてきたのだろうと思います」
現在、足利直義に献上された『太平記』は残っておらず、書き足しを終えた直後の1370年代後半の書写本(一部のみ)が現存する最古のものだとされています。そして、その後もリライトは重ねられ、江戸時代に活字印刷されるまで続いたといいます。結果、さまざまな『太平記』が存在することに。北村先生によると、今残っている『太平記』は、甲・乙・丙・丁の4つに分類されるといいます。このうち古い形が多く残っているのが甲類、江戸時代に流布した版本やその近似本が乙類、そしてリライトが最も著しいのが丙類となるのだそう。丙類は内容が大きく変わっているものの、史実としての誤りを直している部分も多くあるそうで、歴史書に近い内容になっているといえるのかもしれません。現在でも入手できる岩波文庫の『太平記』(全6冊)は甲類、新潮社の『新潮日本古典集成・太平記』(全5冊)は乙類、小学館の『新編日本古典文学全集・太平記』(全4冊)は丙類をもとにしています。
それにしても、世に出る前も、出てからもリライトが多い『太平記』。なぜここまでリライトが多かったのでしょう。その答えの一つとして、リライトによって同じ場面でも描かれ方が大きく異なる箇所を、北村先生が解説してくれました。それが、播磨国の武士・赤松円心が敵陣から脱出する「坂部の合戦」(巻八)の場面です。「一般に読まれている『太平記』では“天運の助けによって離脱できた”とだけ記され、あっさりと片付けられていますが、その部分に加筆している本があるのです。その本の場合、円心が身につけていた装備や、敵の馬をみごとに奪い取って味方と合流する様子が詳しく描写されています。また、別のシーンでは円心が大敗して退却したという記事が、兵力を温存したまま再戦に備えたと書き換えられています。子孫が先祖の汚点を隠そうとしたのでしょうか。他の本をみると、同様のケースは赤松以外にも指摘できます」。
先祖の活躍ぶりがもっと格好よく伝わるように書き加えたり、一族にとって不都合な記述を抹消したり。第三部にいたっては戦術の手順や分析の記述が多いことから、“おもしろくない”という理由で削除されたところもあるといいます。こうしたリライトから、見栄や切実な願い、娯楽性の追求など、当時の人々の人間くさい一面が見えてくるようです。
マニアックなだけでない、古典文学の可能性とは
小学生の頃から『平家物語』などの軍記物語に興味を持っていたという北村先生。文学の研究は、「テクノロジー等のようにすぐ社会に役立つものではない」としながらも、教育や研究における意義を次のように語ります。
「文学の中でも、古典文学は特にマニアックな世界です。そこで、学生に教える際には知識だけでなく、作品との向き合い方を重視しています。自分がプロデューサーになったつもりで、作品のセールスポイントを見つけ、どう売り込むかという意識を持って研究することで、得られるものがあるはずです」。目の前にあるものをそのまま受け取るのではなく、横にあるものと比べて特長を見いだす。ちょっと視点を変えてみる。柔軟な思考、考え方を身につけることは、社会人にとっても必要なことかもしれません。
また、コロナ禍を経て観光業が再び活気を取り戻すなか、「古典は地域の観光資源を盛り上げる一助になる可能性もあります」と北村先生。『太平記』には、楠木正成が自害した兵庫県神戸市の湊川、足利直義が戦った芦屋市の打出浜など、今も地名が残る場所が多く登場します。こうした舞台で繰り広げられたとされる物語を通して、その魅力を伝え、観光などにつなげることができるかもしれないと話しました。
最後に、北村先生は軍記物語への思いを聞かせてくれました。
「最初にお話したように、歴史と文学・物語の線引きは難しいものです。軍記物語には創作、つまり嘘も混じっています。ですが、嘘をついてまで何かを伝えたかった人がいたのは確かな事実であり、それも歴史の一部ではないでしょうか。歴史上の客観的な事実だけでなく、人々の願いや見栄といった物語が混ざっていることも軍記物語の持ち味として愛してもらえたらと思います」
取材対象:北村 昌幸(関西学院大学文学部 文学言語学科 教授)
ライター:ほんま あき
運営元:関西学院 広報部
※掲載内容は取材当時のものとなります