
非正規雇用はなぜ生まれたのか。海外の雇用から考える、日本がめざすべき方向とは
自分の都合にあった働き方ができる一方で、収入や雇用の不安定さにより格差社会の一因ともされる非正規雇用。では、日本の非正規雇用はどのような背景から生まれたのでしょうか。また、海外と日本の非正規雇用で違う点は何でしょう。日本だけでなく、韓国やオーストラリアにおける働き方を研究する横田伸子先生に伺いました。

Profile
横田 伸子(YOKOTA Nobuko)
関西学院大学社会学部 教授。ソウル大学校経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。山口大学経済学部教授・同大学院東アジア研究科教授、ハーバード大学東アジア言語文化学部客員研究員、梨花女子大学校客員教授、トロント大学韓国研究センター客員教授、オーストラリア国立大学韓国研究所客員研究員などを歴任。2016年より現職。研究テーマは労働社会学、経済社会学。特に韓国の労働社会の変容について日本との比較分析を行ってきた。現在は、日本と韓国の若者の就労問題や女性の貧困問題について関心を持ち、非正規労働者や労働運動の動向に注目している。著書に『韓国の都市下層と労働者―労働の非正規化を中心に』(ミネルヴァ書房、2012年、社会政策学会賞受賞)、『「働き方改革」の達成と限界 日本と韓国の軌跡をみつめて』(共著、関西学院大学出版会、2021年)などがある。
この記事の要約
- 労働の非正規化はグローバル化の展開に企業がコスト削減で対応しようとして生まれた。
- 韓国では非正規雇用の待遇改善や無期契約職化を労働運動で勝ち取った。
- オーストラリアでは正規・非正規労働者ともに同一の労働組合に加入できる。
- 人件費削減ではなく、人材育成や教育によって競争力をつけ、製品の付加価値を高めることが必要不可欠。
世界との競争を勝ち抜くために非正規雇用は生まれた
非正規雇用とは、正規雇用つまり正社員以外の雇用形態の総称で、契約社員や派遣労働者、パートタイム労働者、アルバイトなどを指します。日本の就業や失業などの状況を明らかにすることを目的に総務省統計局が実施している「労働力調査」(※)の2024年度発表によると、非正規雇用労働者の割合は約37%ですが、雇用や収入が不安定なフードデリバリーの配達員やフリーランサーなどは「自営業」に分類され、実質的に非正規雇用的な働き方をしている人はもっと多いのではないかと横田先生は指摘します。
※2024年度「労働力調査(基本集計)」平均結果。正規雇用労働者は、勤め先での呼称が「正規の職員・従業員」である者。非正規雇用労働者は、勤め先での呼称による分類が「パート」「アルバイト」「労働者派遣事業所の派遣社員」「契約社員」「嘱託」などに該当する者。
「日本でこれほどまでに非正規雇用が広まった背景には、1990年代以降のグローバリゼーションの急進展があります。それまでの日本企業は、終身雇用や年功賃金といった日本的雇用を特徴とし、従業員の安定的な生活を保障することで成長してきました。しかし、世界中の企業が国境を超えた競争状態であるメガコンペティションに巻き込まれ、日本の企業も生き残りのために徹底的なコスト削減を迫られる中で、特に人件費が削減のターゲットにされたのです」
さらに、非正規雇用の拡大につながったのが、政府による労働の規制緩和です。1985年に派遣法(労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護等に関する法律)が成立し、それまで禁止されていた労働者派遣が可能になりました。
ただ、当初は通訳・翻訳・速記、ソフトウェア開発など、専門的な知識や技術が必要とされる13職種に限られ、労働者派遣は原則禁止、リストに掲載された職種だけが例外的に認められるものでした。しかしその後、対象職種が拡大し、1999年には士業など一部の職種については禁止されているものの、派遣労働の職種は原則自由に改正されました。
「この法律により、企業はより柔軟な雇用形態を取り入れやすくなり、precarious(不安定)かつ制度の保護からも排除されたinformal(非公式)な非正規労働者が、女性や若年層を中心に大量に創出されることになったのです。その人たちは、正社員とは異なる不安定な立場で、企業のコスト削減に貢献したり、好不況の雇用の調節弁としての役割を担うようになりました」
人件費削減によるコスト削減で国際競争に対応し、企業の競争力を維持しようとした日本。しかし、2000年時点のGDP(国内総生産)は2位を誇っていましたが、2024年には中国にもドイツに抜かれて4位になり、5位のインドに抜かれるのも時間の問題とされています。また、1人あたりGDPも下がり続け、実質賃金も過去30年間ほぼ横ばい状態です。「低賃金で雇用が不安定な非正規雇用の増大は、日本社会に深刻な影響を及ぼしています。労働者、生活者を大切にしない国は衰退していくように感じます」と横田先生は危機感を持って語ります。
日本と異なる韓国、オーストラリアの非正規雇用
非正規雇用が進み、問題を抱えているのは日本だけではありません。たとえば韓国では、1997年のアジア通貨危機で大打撃を受けた影響などから非正規雇用が多くなり、かつては日本よりも格差が広がっていました。しかし、その後の道は日本とは大きく異なっていると横田先生は言います。
「韓国では、歴代の進歩派の政権が雇用の安定と格差縮小をめざす政策を推進してきました。無期契約職化を含む正規雇用化をはじめ、企業が労働者を解雇する際に設けている規制を非正規労働者にも適用したり、最低賃金を大幅に引き上げたりといった所得主導型の経済発展政策が取られたのです。その結果、今では最低賃金額は日本を上回り、格差を表す相対的貧困率も日本より小さくなっています。これは、政策的な努力によって格差が是正できることを示唆しています」
これには韓国の歴史的な事情が背景にあるそうで、かつて韓国は軍事政権下にありましたが、国民の粘り強い闘いを経て1987年に民主化を勝ち取りました。1990年代にソウル大学大学院に留学していた横田先生は、差別をなくし、格差是正に取り組み、国民の福祉や生活を良くしようと行動に移す人々の熱い想いを肌で感じたのだそう。そんな行動力は若い世代にも受け継がれ、今なお社会的脆弱階層を社会に包摂しようとする労働運動や社会運動が盛んで、非正規雇用の問題についても、労働者や市民が待遇を変えるために声を上げていると横田先生は言います。
韓国だけではありません。オーストラリアも労働組合運動が伝統的に強く、大学教職員が雇用のカジュアリゼーション(非正規化)に抗議して、オーストラリア全土で大学同盟ストライキを実施。正規・非正規雇用を問わず全教職員が同じ組合に加入でき、まず、最も弱い立場にいるカジュアルワーカーの賃金や待遇が大きく改善されたのだそうです。
「オーストラリアには、日本のように非正規雇用イコール低賃金という認識はありません。“非正規雇用者は社会保障で守られていない分、賃金を高く払うべき”という考えから、たとえば期限の定めのある有期雇用の公務員の給料は、正規雇用の2倍というケースもあります。そのため、有期雇用で働きながら、次のキャリアをめざしたり、自分の好きなことに取り組んだりといった柔軟な働き方が実現できるのです」
横田先生によると、韓国、オーストラリア以外では、EU諸国には正規雇用と非正規雇用によって待遇に差はなく、待遇に差を設けることは法律違反になるのだそう。一例を挙げると、ドイツでは介護や育児のために短時間勤務になっても、子育てが一段落して職場に戻るとこれまでと同じポジションで働くことができ、当然のことながら時給もフルタイムと同じ。日本では、同じ仕事をしていても、パートやアルバイトは時給が低いのが当たり前のようになっていますが、EUでは日本の常識が非常識になり、法整備によって働く人がいかに守られるかがわかります。
コスト削減から人への投資へ、価値観の転換を
韓国やオーストラリアは、日本同様にパートタイム雇用や有期雇用といった非正規雇用を導入しているものの、その考え方や運用が日本とは異なることがわかりました。ここから、日本の雇用システムが進むべき方向性やヒントを探ることができそうです。その一つが、労働組合運動の役割だと横田先生は指摘します。
「韓国やオーストラリアでは、労働環境で変えたいことがあれば労働者たちが団結して声を上げています。その結果として、非正規雇用の待遇を是正する政策につながったり、正規・非正規雇用の差別をなくす法律が生まれたりしました。しかし、日本では非正規雇用者たちが孤立、個別化しています。社会を動かすには、個人が集団として組織されることが必要です」。そして、非正規雇用者をはじめとする働く人たちの声を労働・社会政策に反映させ、非正規雇用者を法や制度で保護する構造を整える必要があると言葉を続けます。
また、非正規雇用問題を考える上ではダイバーシティやジェンダーの視点が大切ではないかと横田先生は指摘します。その理由は、女性の非正規雇用の多さ。現在、日本の非正規雇用の7割は女性が占めています。非正規雇用が増え出した1990年代は、ちょうど就職氷河期のはじまりと重なっており、男女問わず就職や転職するのが厳しい状況でした。ですが、当時も今も、非正規雇用の男女比はさほど変わらないといいます。
「女性の非正規雇用者が多いのは、日本の雇用環境がいまだに長時間労働であること、また、家事や育児、介護といった家庭責任が女性にのしかかるケースが多いことも背景にあるといわれています。日本における非正規雇用問題の解決の一つには、家族制度の中で女性の権利や地位をきちんと認めることにあると考えます。女性と男性がどちらも平等に家庭責任と仕事のバランスを取りながら、能力を存分に発揮できるような社会構造に変えていくこと。これが雇用問題の根本的な解決につながるのではないでしょうか」
そして今後、非正規雇用を含めた労働者の権利が守られ、日本が国際的な競争力を取り戻すには、コスト削減から人への投資へと、考え方を変える必要があると横田先生は語ります。
「企業経営において人件費削減が大事なときもあるでしょう。ただ、それを競争力の源泉にするのではなく、人材育成や教育に資源や財源を投入し、知識やスキルを活かした付加価値の高い産業構造をつくり出すことで、企業は独自性や生産性で競争力を高めることができると思います。近年、大企業を中心にダイバーシティの観点から誰もが働きやすい環境を整えようとする動きが出てきました。今、ようやく変化の兆しが見えてきたと感じています」
取材対象:横田 伸子(関西学院大学社会学部 教授)
ライター:ほんま あき
運営元:関西学院 広報部
※掲載内容は取材当時のものとなります