
スポーツ・武道・武術の違いとは? 太極拳が教えてくれる身体の可能性
「身体を動かす」といえばまっさきに思いつくのがスポーツですが、スポーツ以外にも身体を使った活動はたくさんあります。スポーツ社会学と身体論を研究している倉島哲先生は、武術に着目することで、スポーツという概念の陰に隠れてしまった身体の使い方の豊かさが見えてくると言います。中国発祥の伝統武術である太極拳の調査からわかってきた、身体の可能性についてうかがいました。

Profile
倉島 哲(KURASHIMA Akira)
関西学院大学社会学部教授。京都大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。京都大学人文科学研究所助教、英国マンチェスター大学客員研究員などを経て、2009年関西学院大学に着任、2014年より現職。専門はスポーツ社会学、身体論。太極拳の調査を通じて、社会と身体の相互的な関係を捉え直す研究を行っている。著書に『身体技法と社会学的認識』(世界思想社、2007年)がある。
この記事の要約
- 身体の社会学は、身体と社会の関係性を分析する学問分野。
- スポーツの練習は常にルールを前提としているため、スポーツでは社会が身体のありようを決定する。
- 武術の練習はルールを前提としておらず、また、異なる流派どうしの手合わせもできるため、社会に縛られない身体の創造性が発揮される。
- 太極拳の武術的な練習方法のひとつである推手(すいしゅ)は、流派を超えた身体的コミュニケーションを可能にしてくれる。
身体を通して社会を考えるとは?
倉島先生は、身体という切り口から社会を研究しています。社会的なものといえば、まず思いつくのが制度やルールですが、なぜ身体に着目するのでしょうか。
「社会のルールを身につける際にも、実は身体がとても重要な役割を果たしています。このことを示したのが現代フランスの社会学者、ピエール・ブルデューです。たとえば、子どもは学校に通って、国語や算数などを勉強しますが、無意識のうちにもっと大事なものも身につけています。毎日決まった時間に登校すること、先生が話している間は黙って座っていることなどです。ブルデューは、このようにして無意識のうちに身についた習慣を『ハビトゥス』と呼び、意識的な学習よりもむしろ、学校にふさわしいハビトゥスをいちはやく身につけることが学校での成功をもたらすことを示したのです」
無意識のうちにハビトゥスが形成されるという視点は、社会的な格差の問題を考えるうえでも重要だと言います。
「恵まれた家庭環境で育った子どもは、就学前から学校にふさわしいハビトゥスを身につけます。その結果、どの教科も理解が早く、先生の覚えも良いため、恵まれない家庭環境の子どもよりも学校で圧倒的に有利になる。ブルデューの解明した、社会的な格差が再生産されるメカニズムがこれです。しかし、生徒ひとり一人の学習努力や勉強法の工夫は、はたして無意味なのでしょうか? ブルデューは、置かれた環境のなかでハビトゥスが無意識的に形成されることを強調するあまり、人々が行動を通して自分を、ひいては、環境を変化させようとする個人の意思をうまく捉えることができていません。その結果、格差が常に再生産されるという決定論に陥ってしまう危険があるのです」
たしかに、自分の意思とは無関係に、置かれた環境次第で決まったハビトゥスが身についてしまうという考えは、人の可能性に目を閉ざしてしまうように感じられます。決定論を乗り越えるためには、どうすればよいのでしょう?
「ブルデューは、社会環境が無意識のうちに『身体化』されてハビトゥスが形成されると考えますが、現実には、あらゆる場面でさまざまな知識や技能が意識的に学習されています。その際、指導者は、単に動作の反復練習をさせるわけではなく、動作のイメージやコツを言葉で伝えようとします。重要なのは、言葉の理解の仕方次第で、同じ指導者のもと学んでいても身につくものが変わってくるということです。教育学者の生田久美子は、スポーツや武道などの技の指導の際に、イメージを喚起する目的で用いられる言葉を『わざ言語』と名付けました。このような言葉が身体に働きかける様子に着目することで、身体がただの社会的な再生産の媒体ではないことが見えてきます」
なぜ、スポーツでも武道でもなく、武術なのか
社会的な再生産という枠組みに収まりきらない身体を捉えるために、技の習得に着目するわけですね。倉島先生は、数ある技のなかでも武術に着目されていますが、なぜ、スポーツではなく武術なのでしょうか?
「何がスポーツで、何がスポーツでないかについての考え方はいろいろあります。しかし、『スポーツには必ずルールがある』という考えには、大方の同意が得られるのではないでしょうか。スポーツ選手は誰でも、ルールに照らして『勝ち』と判定してもらうためにもっとも効率的な技を身につけるべく意識的に努力しますよね。このとき、選手の身体も無意識のうちにルールに順応し、そのスポーツのハビトゥスが形成されるわけです。そして、特定のルールに最適化された技とハビトゥスを身につけた選手は、当然のことながら、ルールの変更を嫌がります。これは、身体を介した社会的な再生産そのものです。ですから、スポーツをテーマとした研究は、再生産の構図を抜け出すことが難しいのです」
ルールを前提としない技の習得を捉えるために武術に着目するわけですね。ところで、倉島先生のおっしゃる「武術」は、「武道」とは違うものなのでしょうか?
「武道は日本に伝統的なものと考えられていますが、実際は明治時代に作られたもので、江戸時代までに形成された武術の諸流派とは根本的に異なるものです。端的に言えば、武道はスポーツ化された武術なのです。変化のきっかけをつくったのが『柔道の父』と呼ばれる嘉納治五郎(かのう じごろう)です。それまでは型の稽古が主体であった柔術に、自由な攻防を行う『乱取り』という練習形式を導入したうえ、『乱取り』の試合ルールを制定しました。こうして創造された柔道は、ルールのもとで勝敗を競うスポーツとしての楽しさゆえに多数の若者を惹きつけます。スポーツ性を獲得することで、武士階級の嗜みとしての柔術は、国民全体の柔道へと変化するわけです。柔道の成功にならい、さまざまな武術が武道として近代化した結果、いくつかの例外を除いて、多くの武道がルールのもとでの競技を前提とした技の習得を求めるようになりました。そのため、社会的な再生産を超え出る身体の可能性を探求するうえでは、武道よりも武術のほうが研究対象として好都合なのです」
名前は同じでも実質が違うことが、身体を通して見えてくる
現在もなお、型の稽古が練習の中心を占めている武術として、倉島先生は太極拳を研究しています。太極拳といえば、ゆっくりしたダンスのような動作のイメージがあり、武術とは印象が異なるのですが?
「太極拳は健康体操として普及していますが、本来は武術として創造され伝承されてきました。太極拳の型はダンスのようですが、これは正しい動作を身に付けるための一人稽古であり、いわば剣道の素振りに相当します。そのため、武術にウェイトを置いた教室では、一人の型に加えて、二人組の練習も行われています。私が6年間にわたって調査を行った教室でも、太極拳を武術として教えており、二人組で行う対練の型がよく練習されていました。柔術や合気道のように『捕り』と『受け』の役割に分かれて、『受け』が最初に仕掛けた攻撃を、『捕り』がさばいて相手を投げるという一連の動作を練習するのです」
役割として決められた型の動作を反復して身につけることは、社会的な再生産にあたるのではないのでしょうか? また、こうした練習の楽しさはどこにあるのでしょうか?
「ある型の『捕り』や『受け』という役割を受け入れることは、社会的カテゴリーの再生産には違いありませんが、これらの役割を果たすことそれ自体に意味があるわけではないのです。たとえば、名目的には同じ型の『捕り』でも、上手な人がやるのと下手な人がやるのとではまったく違います。上手な人だと相手をきれいに投げられるのですが、下手な人はそれができないのです。なぜか、相手の力とぶつかって動作が途中で止まってしまう。名目的には同じ『捕り』の役割を果たし、一見すると同じ動作をしているのに、先生にはできて自分にできないのはなぜなのかを考えながら身体で試行錯誤しているうちに、自分の動作の微妙なポイントが先生とは違っていたことがわかってくる。このようにして、練習を続けるほど、名目的には同じ型でも、実質的にやっていることは人によって全く違うことが見えてきます。技や流派についても同じことがいえます。名目的には、技の『伝承』や、流派の『継承』が行われていることになっていますが、こうした社会的な同一性は、本質的に観念的なものでしかなく、その背後には無数の試行錯誤があり、身体がもたらす発見と創造があるのです」
身体を通して他者とつながる楽しさ
身体の創造性が発揮される場として、倉島先生は、流派を超えた武術交流の場に着目しています。そこでは、どのような交流が行われるのでしょうか?
「太極拳を特徴づける二人組の練習としては、対練の型のほかに『推手(すいしゅ)』があります。流派ごとに決められたパターンの動作を行う『約束推手』もあるのですが、流派を超えた交流会で行われるのは、動作の制約なしに双方が相手の体勢を崩そうとする『自由推手』です。私が調査した推手交流会は、京都、大阪、神戸で定期的に開催されており、太極拳の諸流派のみならず、柔道、空手、合気道、少林寺拳法、中国拳法など、さまざまな武道や武術の経験者が集まり切磋琢磨しています」
異なる流派の間でも、勝負は成り立つのでしょうか?
「武術のおもしろいところは、それぞれの流派に固有の型や技がある一方で、これらを稽古することが、流派を超えた普遍的な身体を形成することです。これは武術の理想でもあります。同じ流派の相手にしか効かない技がいくら上手くなっても、武術を身につけたとは言えませんよね。もちろん、異なる流派の相手との手合わせは、流派内での手合わせとは勝手が違います。意識的に相手に合わせて動きますし、無意識レベルでも身体が勝手に相手に合わせているため、まったく新しい動きが生まれることもあります。これが、流派という社会的カテゴリーを超え出る身体の創造性なのです」
推手交流会で行われる手合わせについてもっと詳しく教えてください。勝敗はどのように判定されるのでしょうか?
「相手にケガをさせてはいけないという共通了解はありますが、スポーツのように勝敗を判定するための統一的なルールはなく、審判もいません。というのも、推手とは練習方法であって、スポーツのように勝敗を決めるための制度ではないからです。推手を通して、相手の力を敏感に感じ取り、これを利用して相手を崩すことを練習するのです。そのため、柔道のように相手の腕や服をつかむことはしません。相手をつかんでしまうと、自分の力で相手を操作してしまいやすいからです。つかむかわりに、手首や腕を相手と接触させるだけです。相手と触れ合い、相手に合わせてしばらく動くことで、相手の得意な動きや身体の癖を感じ取ることができます。それに応じて、できるだけ楽しく有意義な練習になるように動くのです。崩し合いのゲームとしての側面はありますが、相手を力で圧倒したところで、楽しくもなければ、自分の練習にもなりません。そのため、そのつどの相手や状況に応じて、ゲームのルールつまり勝ち負けの基準を柔軟に変化させるのです。ですから、経験者が初心者と手合わせすることもできます」

推手の手合わせは、流派を超えた身体的なコミュニケーションなのですね。このような活動は、身体を動かすことが減った現代社会にこそ求められるのではないでしょうか。
「体育やスポーツが嫌いな子どもが増えていることが問題になっています。勉強に疲れたらスマホのゲームや動画で気分転換するような生活が、身体に良いわけがありません。しかし、今の社会ではスポーツの存在感が大きすぎて、スポーツが下手な子、他人と競争するのが嫌いな子、他人に身体を見られるのが恥ずかしい子は、身体を動かす機会を実質的に奪われています。しかし実際は、ルールのもとで勝敗を競い合う活動としてのスポーツは、数ある身体活動のひとつに過ぎません。武術と太極拳についての私の研究が、身体を動かす楽しさや、身体を通して他者とつながる喜びを、より多くの人に知ってもらうことに貢献できればよいと思います」
取材対象:倉島 哲(関西学院大学社会学部 教授)
ライター:あわむら あや
運営元:関西学院 広報部
※掲載内容は取材当時のものとなります