WELL-BEING

疲れている方のために ―私たちの心の負荷を共に担うイエス |聖書に聞く #38

岩野 祐介神学部教授・神学部長

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。

マタイによる福音書11章28-30節

以前出席していた教会で「これは日本の教会の看板に最もよく書かれている聖書の箇所だ」と聞いたことがあります。そこで本コラム執筆にあたり、過去にどなたかがこの箇所を取り上げていないか確認しました(重なるのはよくないと思ったのです)。どなたも取り上げておられなかったので安心してこの箇所にしました。

看板に書かれるということは、道行く人々の心に響く言葉だと思われている、ということでしょう。新共同訳聖書(1987)でこの箇所は「疲れた者、重荷を負う者」と訳されていました。聖書協会共同訳聖書(2018)で上述の「すべて重荷を負って苦労している者」となりました。みんな疲れ、苦労している。わたしもです。

軛とは、伊達メガネのような形状の器具で、二つの穴に二頭の牛が並んで首を突っ込んで荷車を引っ張る仕組みです。「わたしの軛を負いなさい」とおっしゃるのだから、イエスを主として信じれば負担、重荷がまったくなくなるという意味ではありません。しかし、イエスが「一緒に並んで重荷を引っ張り、共に歩んでいこう」と言われるのです。「頑張ってついてこい、ついてこられないやつは置いていくぞ」でもなく、「全部代わりに負ってあげよう」でもありません(ただし本当につらいときは重荷のみならず我々自身をも背負ってくださるのだと思います)。

とはいえ、同じ軛を負うと、二人三脚のように一緒に歩くので、イエスの進む方向にこちらが引っ張られるように感じることがあるかもしれません。行きたくない方向へ進まされていると感じることもあるでしょう。

そんなとき、神様、イエス様が、「それでええのか? 本当はこうした方がいいとわかっているのに、疲れているから、面倒くさいから、自信がないから、避けようとしているんじゃないか?」と問いかけてくる(ように感じる)こともあるでしょう。それは、ちょっとつらいです。とはいえ、「こっちに向かうべきだろう」、「本当はそうしたい」と思う自分も本当で、「面倒はいやだな」と思う自分も本当です。そのすべてをそのまま受け止めて共に歩んでくださるのがイエスなのです。

神が疲れをとってくれるのか?といえば、直接的には“No”です。ゆっくり寝る、美味しいものを食べる、お風呂に入るなど直接的なケアは自分でするしかありません。ですが、「休んでいていいのか?」「美味しいものを食べていていいのか?」と罪悪感にさいなまれ、結局疲れがとれないような状況だとしたら、そのときはイエスがあなたを引っ張って、休ませてくださいます。重荷を感じるときも、逃げ出したい気持ちのときも、共に歩んでくださるのです。

Profile

岩野 祐介(IWANO Yuusuke)

1971年、愛知県生まれ。2007年京都大学大学院文学研究科博士後期課程(キリスト教学専修)満期退学、2010年京都大学博士(文学)学位取得。現在、関西学院大学神学部教授、2023年から神学部長。日本キリスト教史、日本キリスト教思想史。

運営元:関西学院 広報部

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