WELL-BEING

後ろのものを忘れ、目標を目指してひたすら走ること|聖書に聞く #4

土井 健司神学部教授・神学部長

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリピの信徒への手紙 3章13-14節

若いころ、寝転がって英語を読んでいたとき、分からない単語がでてきたので辞書で確認した。しばらくして同じ単語が出てきたとき、「さっきもあったな、なんだっけ」と考えてみるのだが、まったく思い出せず、かといって寝転がっているので辞書は出来るだけ引きたくない。そもそも数秒前に見たばかりではないかと、じっとページを睨みながら考えてみても、やはり思い出せず、つくづく自分の愚かさを嘆いたことがあった。そしておおよそ10分ほど睨めっこして、あきらめて辞書を引いて、あぁそうだったとため息をつく。そんなことを繰り返すうちに、これは睨めっこしてもダメだ、すぐに辞書を引いた方が早いと気づいた。悪あがきせずに忘れたのならそのことを受け入れて、さっさと辞書を引こう。以来辞書を引くことが苦にならなくなった。

パウロといえばキリスト教の草創期に活躍した伝道者で、その書簡が新約聖書になかにいくつも残っている。具体的状況は分からないものの、パウロは、自分は偉く完成したと自惚れている信徒にむけて、パウロ自身もまだ完成したわけではないという。それどころかひたすら目標に向かって走っているのであって、いわばいつでもスタート地点なのだと述べる。こうして「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」と結んでいる。どこまで進んだとしても、いや後退してしまったとしても、いつでもどこからでも今がスタート地点なのだという。単語が思い出せないのはマイナスからのスタートになるが、プラスであってもいつも今からスタートだという考え方になるだろう。ギリシア語で「エペクタシス」と呼ばれるこの考え方は、その後の教会の人びとに大きな影響を与えることになった。

ところで6年前にバイオリンをはじめた。左手が思うように動かないし、右手の弓もギコギコ、さらに音痴なので外れた音が分からない。練習のたびに今からスタートだと思ってやっている。先生の前で弾き終わって、数秒何もコメントがないため、「気絶した?」と申し訳なく思うこともあったが、いつも笑顔で指導してくださる。ところがずっと前、大胆にも神学部のチャペルで練習したことがあったが、隣室の人たちの姿が見えなくなった。いつも今がスタートだと思って懲りずに練習を重ねてきているが、隣人に迷惑をかけるのはよくないと反省した。以来バイオリンは独りでがんばることにしている。

よいクリスマスをお祈りいたします。

Profile

土井 健司(DOI Kenji)

関西学院大学神学部 神学研究科を経て京都大学大学院で学ぶ。京都大学博士(文学)、関西学院大学博士(神学)。日本基督教学会近畿支部代表理事、日本宗教学会常務理事、第24期・25期日本学術会議連携会員。神学部教授、13年から16年度、ならびに21年度から神学部長。著書『キリスト教を問い直す』、『教父学入門』、『神認識とエペクタシス』(第七回中村元賞受賞)他。

運営元:関西学院 広報部

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