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フェアーな社会とは何か?|聖書に聞く #10

トリーベル・クリスティアン関西学院宣教師、学長直属助教

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

後にいる者が先になり、先にいる者が後になる(聖書協会共同訳)

マタイの福音書20章16節

一番足が速い人が金メダルをもらう。一番頭がいい人が成績トップとなる。一番仕事ができる人が出世をする。一番優秀な人が最も評価される。これこそが公平だと思う人は多いだろう。しかし、イエス・キリストのたとえ話「ブドウ園の労働者」の最後に「後のものが先になり、先のものが後になる」とある。これは不公平なのか?

「ブドウ園の労働者」は神の国の独特の価値観についてのストーリーである。ブドウ園の主人は、朝早くに広場に行き、日雇い労働者を集める。少し後にもう一度広場に行くとまだ雇ってもらえず残っている労働者がいるのを見て、また雇う。正午になっても、午後3時になっても、午後5時になっても、仕事が見つからず待っている労働者がいるのを見た主人は全員を雇う。さて、その日の仕事が終わり、夕方から働いた人にも、昼から働いた人にも、また朝早くから働いた人にも、主人は同じ一日分の報酬を支払う。しかしそれを見た、朝から働いた労働者は「不公平だ! 一時間しか働いていない人と一緒にするな!」と不満をぶつける。主人は「友よ、不当なことはしていない。全員に一日分の報酬を支払いたいのだ。気前のよさが気に入らないのか?」と答える。とても人間らしいストーリーである。夕方から働いた人の喜びも、朝から働いた人の不満も理解できる。このたとえ話は神の恵みについて教えているのだが、同時に人間の評価についても考えさせられる。

このたとえ話を学生に紹介する時「フェアーだと思いますか?」といつも尋ねる。意見は大体分かれる。しかし学生の半分が間違っているわけではない。「フェアー」は一つの概念ではなく、社会にはいくつかの「公平性」が同時に存在する。一つは労働者をその生産性で評価する公平性。いい仕事をする能力のある人は高い報酬を要求することができる。しかしこの公平性だけでは格差社会が生まれる。「生産性がない」とみなされた人々は見捨てられる。これは「フェアー」なのか?

公平性には違うとらえ方もある。たとえ話に登場する、夕方まで雇ってもらえず待っている人たちは一体どんな人なのか想像できる。障害や病気を抱えている人、老人、子供、女性、差別を受けている人。怠けているわけではない。みんな生活する権利を有している尊厳ある人間である。ブドウ園の主人は「労働者からどのくらいの利益を絞り出すことができるか?」ではなく、「彼らが生活するにはいくら必要か?」と考えた。だれもが安心して暮らすことができる社会こそがフェアーであると考えることもできる。人間には生産性以上の価値はあるはずだ。

現在の日本社会はどの意味でフェアーだろうか? 活躍する人を評価することはもちろんすべきである。ブドウ園の主人はそれを否定していない。しかし、事業者にとって労働者はただの「都合のいい利益生産者」となってはならない。企業の時価総額は社会の豊かさの物差しではない。両方の意味でフェアーな社会を実現する社会的責任がある。人にやさしい社会は時に、後の者を先にする、先の者を後にする必要がある。

Profile

トリーベル・クリスティアン(TRIEBEL Christian)

横浜出身、ドイツ人。東京基督教大学(BA神学、2005)、Claremont Graduate University(MA神学・宗教哲学、2009)、King’s College London(PhD神学、2016)。2017年より関西学院大学神学部教員(任期制教員)、2020年より関西学院宣教師(神戸三田キャンパス配置)、学長直属助教。

運営元:関西学院 広報部

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