WELL-BEING

アダムとイブの物語 「人のせいにしてしまいたい」気持ちの根深さ |聖書に聞く #11

岩野 祐介神学部教授・神学部長

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

旧約聖書 創世記第3章11-12節

ローマの信徒への手紙には、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(5:12)と書かれています。創世記には、キリスト教において、あらゆる人間の罪の根源と考えられてきたアダムの罪について書かれています。蛇がエバ(イブ)をそそのかし、エバがアダムをそそのかし、アダムも神のいいつけに背いて、善悪の知識の木の実を食べてしまった。それが人類の最初の罪、神への反逆でした。

…なのですが、神に逆らったことと同じくらいとんでもないことがここには書かれているのではないか、と私は思っています。それは、アダムが、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えていることです。

ここでアダムは、自分ではなく「女」が悪い、と言っているように見えます。しかしアダムは、この箇所の1ページほど前の個所では、最高のパートナーを与えてくださった、と神に感謝しているのです。それなのに、神に「お前は私の命令に背いたな!」と詰め寄られると、「違うんです、この女がそそのかしたからなんです」と、人のせいにしようとする。何となれば、この女が私とともにいるようにしてくださったのは、神様、あなたではないですか、と責任の一端を神にまで負わせようと思っているかのようです。

罪を逃れようと思ったら、最もそばにいる大事な人にさえ罪をおしつけ、こいつのせいだ、と言ってしまう自分勝手さこそが罪なのではないか?と思わされます。何かやってはいけないことをやってしまったとき、それを自分のせいだと思いたくない、人のせいにしたいという感情がいかに根深く強いものであるか、この箇所は伝えているように思うのです。罪の結果として、人間関係の破壊があるのです。

そのような罪から人間を救われるイエス・キリストは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」の二つがもっとも重要な掟だと言われています。しかも、「隣人とは誰ですか」という問いに対して、誰が隣人か、が問題なのではない、お前から行って隣人になればいい、とおっしゃるのです。人間関係の回復です。そしてそんな勇気のない私たちでもその背を押し、二人三脚のように導いてくださるのがイエスなのだと思います。イエス・キリストによる罪の贖いによって、自分勝手な私たちであっても、人間関係を構築し修復することができるのではないか、と思うのです。

Profile

岩野 祐介(IWANO Yuusuke)

1971年、愛知県生まれ。2007年京都大学大学院文学研究科博士後期課程(キリスト教学専修)満期退学、2010年京都大学博士(文学)学位取得。現在、関西学院大学神学部教授、2023年から神学部長。日本キリスト教史、日本キリスト教思想史。

運営元:関西学院 広報部

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