WELL-BEING

視点を変えることで得られる豊かさ |聖書に聞く #17

村瀬 義史総合政策学部准教授・宗教主事(建築学部宗教主事 兼務)、関西学院院長補佐

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。

ヨハネによる福音書15章16節

詩人・吉野弘(1926-2014)の作品に「I was born」という散文詩があります。英語を学び始めた年ごろの少年(作者)が、偶然通りがかった身重の女性を見て、「生まれる」という言葉が英語で“受け身の形”で表現される意味にふと納得し、「やっぱりI was bornなんだね」と隣を歩く父親に向かって興奮ぎみに話すところから会話がはじまります。自らの存在にも関わる事実に目を開かれたこの少年の、新しい自己理解と自立心の芽生えが繊細に描かれる美しい詩です。

聖書にも、普段とは異なる視点からも自分や世界を見ることをうながす言葉が数多くあります。ある時イエス・キリストは、弟子たちに「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」と語り、弱気になっていた彼らを深く勇気づけました。この言葉は、上記の詩にも通じるのですが、わたしたちの人生の重要な部分に、“受け身”で表現される事柄があることに心の目を向けさせてくれます。

わたしたちの日々の生活は選択の連続です。しかし、わたしたちそれぞれの今の姿は、全部が全部、自分で決めて選んできたことの結果でしょうか。おそらくそうではないと思います。自分が望んだとおりの結果が出ないこともあります。逆に、消極的にある道を選択することになった場合に、当初ハッピーじゃなかったけど、後で、それが自分にとって最善だったと思える場合もあります。ここまでの人生の歩みを俯瞰(ふかん)すると、「この道を選ばざるをえなかった」とか、「このように導かれてきたとしか思えない」という部分があると思います。そしてそれはきっと、自分にとって重要な部分です。

わたしたちに大きな影響を与える人との出会いの多くも、「自分で獲得したもの」というよりは「導かれたもの」、「与えられたもの」だと言える面がないでしょうか。“受け身”は望ましくない態度としてのみ見られがちですが、わたしたちの生きる現実には、自分が能動的に切り拓くことと受動的に与えられることの両方の部分があるのです。

人は、自分の計画・願望が100パーセントそのまま実現できれば幸せで、そうでないなら不幸せであるわけではありません。思い通りにならないことの中にも、さらには自分が(今は)否定的にとらえている事柄の中にさえ恵みや導きが秘められている。その可能性を明るく信じつつ、周囲の人や人知を超える大きな存在によって自分が「生かされている」と受け止めてみる。このような視点もひとつ持っておくことが、自分の今を感謝し、周囲の世界に向かって真に主体的に踏み出すための新たな元気をもたらしてくれるかもしれません。

Profile

村瀬 義史 (MURASE Yoshifumi)

関西学院大学大学院神学研究科博士課程前期課程修了、後期課程中退。日本キリスト教団東梅田教会伝道師、活水女子大学専任講師を経て、現在、関西学院大学総合政策学部准教授・宗教主事(建築学部宗教主事 兼務)。2019年度より関西学院院長補佐。『ミナト神戸の宗教とコミュニティー』(共著)、『東アジアの平和と和解―キリスト教・NGO・市民社会の役割』(共著)ほか。

運営元:関西学院 広報部

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