WELL-BEING

神様の「良し」と生きる |聖書に聞く #24

中道 基夫関西学院院長、神学部 教授

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

神は言われた。「光あれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

創世記1章3-5節

聖書で神様が私たち・被造物に最初に語りかけられた言葉は「良し」という祝福の言葉でした。ヘブライ語では‘tob’という言葉で、「良い、善い、美しい、喜ばしい」という意味を持っています。この言葉は、被造物の客観的な資質や能力の高さではなく、神様から見た評価、関係であり、私たちの本質を表しているものです。被造物には、光の美しさと共に闇があり、いのちの美しさと共に死が存在します。私たちも弱さを持ち、無知であり、誤りを犯す者ですが、その私たちに神様が「良し」と語り、祝福してくださったことに神様と私たちとの関係が表れています。

しかし、この言葉が語られた後、神によって創られたアダムとイブは神様の教えを破る、つまり罪を犯してしまいます。このことによって人間に対する神様の「良し」がなくなったり、その評価や関係が取り消されたりするわけではありません。ただ、神様の「良し」は、日常生活の中で傷つけられることがありうることを物語っています。

そのもっとも大きな力が私たちの死の現実です。そして、小さな死といわれる病気や失敗、別れ、関係の破綻、自信喪失、否定的な言葉や悲惨な出来事によって「良し」が傷つけられます。神様の「良し」そのものが傷ついたり、損なわれたりというよりも、私たちの神様の「良し」に対する信頼が失われ、神様との関係が損なわれるということです。そのため、神様の「良し」以外の「良し」(他者の評価)を求めようとすることもあるでしょう。つまり、自分自身に対する肯定感や信頼の喪失、現代的な表現で言うならば、精神的疲弊、自己疎外、自己肯定感の低下です。

聖書には、この神様の「良し」の喪失と回復が繰り返し、繰り返し綴られています。たとえば、詩編の作者は、そのような状態を「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか。私の悲嘆の言葉は救いから遠い」(詩編22:2)と表現しています。しかし、この詩の最後には神様の「良し」の回復に対する信頼が語られています。この回復と和解は、他の聖書箇所では「天国」「神の子」「神の義」「救い」として表現されています。

自分自身の中に、自己を肯定するもの、自分自身を評価するものを見出そうとすることも大切です。しかし、それは死の現実そして日常で経験する小さな死によっていとも簡単に見失ってしまいます。何ものによっても損なわれることのない神様の「良し」、私たちが絶えず帰って行くことができる根本を持つことは、私たちに大きな力を与えてくれます。

Profile

中道 基夫(NAKAMICHI Motoo)

関西学院大学神学部、同大学院博士課程前期課程修了。神戸栄光教会、城之橋教会の牧師を経て、ドイツで宣教協力牧師として働く。ハイデルベルク大学神学部留学(神学博士)。2000年より関西学院大学神学部教員(実践神学担当・教授)。2022年より関西学院院長。著書『天国での再会 キリスト教葬儀式文のインカルチュレーション』、その他。院長室からのメッセージ動画「風に思う」 配信中。

運営元:関西学院 広報部

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