旅の道すがら、三日月を見上げて |聖書に聞く #26
土井 直彦関西学院千里国際キャンパス宗教主事
関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。
【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
詩編133編
今年の夏、かねてから計画していた巡礼の旅に赴きました。
130年ほど前に、アメリカ先住民に対して白人の兵士たちが行った悲劇的な行為を覚えて、その行程を巡り、祈りをささげる鎮魂と慰霊の旅です。参加者の約半数は被害者遺族の子孫たち、またそれ以外の多くは、カナダ・メキシコに及ぶ多くの他部族の先住民の人たちでした。私は加害の立場からその列に加わりました。日本人の私はアメリカ史には直接関わりは無く、加害家族の子孫でもありません。しかし、先住民に銃を向けた騎兵隊の多くは日曜日には教会で熱心に祈るキリスト教の信仰を持った人間であったからです。
野外活動を通じて先住民と関わりを得た私は、独自の文化と信仰の語りを聞くうちに、それが単に過去の話ではなく、彼らの現在にも続く物語であることを実感しました。2008年に再訪した際のことです。いつも迎えてくれる部族のリーダー宅に滞在していた私は、彼が巡礼者たちにゲストとして招かれることを知り、同行しました。リーダーは巡礼者たちに自分と祖先の話を語り、彼らのために祈りました。その語りは告白そのものです。彼は、虐殺された先住民の子孫であり、また、彼自身白人化政策として寄宿舎生活を強いられた最後の世代です。彼は、「赦しあい、祈り合う」ことの大切さを伝え、巡礼者たちを見送りました。「赦しあい、祈り合う」ことは、キリスト教にとって大切なテーマであり、そこには関わらなければ理解の及ばない深淵があります。
16年前に彼らに出会い、旅の同行を願い出て、ようやく参加がかないました。かつて、相手に敬意を示すことが出来ず、文化や風習への理解を示さず、相手の信仰を蹂躙した人間の悲劇を想い、異なる生き方をする者同士が祈り合える機会は、とても豊かで、実りに満ちたものとなりました。そこには、和解と赦しと敬意がありました。
冒頭に【都に上る歌】と注釈が付けられた、この詩編133編は巡礼のための歌です。古代ユダヤでは、年に1度は巡礼のため、都に上ることが良いこととされていました。しかし、貧しい人、遠い国に住む人にとっては、毎年巡礼を行う事は難しく、都への巡礼は、一生に1回であっても辿り着きたい悲願でした。そのため、人々は巡礼の旅路にあって、古くから伝わるこの詩を口ずさみ、自らを鼓舞しながら都に上ったと言われています。そして、都に近付き、人々の波が大きくなるにつれ、どの街道からもこの詩が少しずつ大きな声で歌われ、都ではうねりのように歌われました。
たとえ、その出会いが一期一会であったとしても、想いを同じくする「兄弟」が、すぐ傍らで同じ目的地に向かって進んでいる。自分は決して1人ではなく、ただただ傍らに座る友の存在そのものが恵みであり喜びである。そこには互いを認め合い、励まし合うことのできる豊かさがあふれています。私は先述の巡礼に参加する途中に、この一節を何度も思い出しました。
私たちは、皆それぞれが見出した自分自身のフィールドで働き、友と出会い、生きる「旅」の途中にいます。旅は時折、困難が襲いかかることもありますが、同じ目的地を持つ者の存在を知っていれば、私たちは心強く、その道を進んでいけます。
夜空に三日月を見上げるとき、私はこれからも巡礼での気付きを思いだすでしょう。そして、今は生きる場を異にする「旅の途中」にある友に思いを馳せるでしょう。それはノスタルジーではなく、今の自分を見つめる大きなふりかえりの機会となることを信じています。
Profile
土井 直彦(DOI Naohiko)
関西学院大学神学部卒業。同大学院進学研究科博士課程前期課程修了。明治学院大学大学院文学部心理学専攻教育・発達コース修了。横須賀学院宗教主任・清教学園高等学校宗教主事・ノートルダム学院小学校・ノートルダム女子中学高等学校教育相談室カウンセラーを経て、2023年より関西学院千里国際キャンパス宗教主事。日本キリスト教団正教師・臨床発達心理士。
運営元:関西学院 広報部