人生が楽しくなる道を選べばよいと後押ししてくれた言葉|研究者たちの人生訓 #2
久米 暁文学部 文化歴史学科 教授
私たちの視野を広げ、知識を深め、世界の捉え方を変えてくれる「言葉」。第一線で活躍する研究者に影響を与えたのは、どんな言葉だったのでしょうか。専門分野の偉人や研究者とのエピソードを聞きました。研究者の人生訓は、私たちにとっても真に豊かな人生を築くためのヒントになるかもしれません。
子どもの頃から、学校の先生や大人の言うことに「本当かな」「なぜそういえるのか」などと考えるところがありました。そんな私の疑問を「屁理屈」と諭す先生もいました。でも、ずっとどこかにクエスチョンマークがついていたのです。その後、高校生になって授業で哲学という分野を知ったときには「これだ!」と感じました。クエスチョンマークをあまりつけずに知識を広げていくのが学問だと思っていたら、人類の歴史の中でもっとも古い学問である哲学は、根本的な事柄に疑問を持ち続けることを許してくれていたのです。
そして、大学で哲学を専攻するのですが、クエスチョンマークを何にでもつける私でしたから、哲学そのものにも疑問を感じ始めるわけです。哲学も学問の一つですから当然ですよね。疑い深い私はこうして哲学自体にもクエスチョンマークをつけ、哲学を含んだ学問研究全体から抜け出そうとしていました。
そんな時に出会った言葉があります。私がその後もっとも力を入れて研究することになる18世紀イギリスの哲学者、デイヴィッド・ヒュームの言葉です。「学問研究をしたいと感じているのに疑いに圧倒されてそれをやめてしまう人よりも、のんきに学問研究を続ける人のほうが、ずっと疑い深いのである。ほんとうに疑い深い人は、自分の学問的な疑いさえも信じず、学問研究をすることでおのずと生じる無邪気な満足を、学問的な疑いを理由に手放すことなどけっしてしないだろう」
無類の懐疑論者だったヒュームは、学問研究によって真理に到達する可能性を疑いましたが、それでも終生、研究をし続けました。それは、学問が真理の獲得を約束しているからではなく、「真理を獲得しよう」などという「邪気」を祓った「無邪気な満足」や楽しみからでした。学問研究の意義は根本的には人間のそうした無邪気な気持ちを満たすことにあるというのです。だから学問が真理に到達できないことを理由に学問をやめてしまうのはおかしな話なのです。それに、学問が真理に到達できないという考え自体も疑ってしかるべきなのですから、その考えに固執して学問をすてるというのも著しくバランスを欠いた態度ということになるでしょう。
研究を続けていこうと私が決めた背景に、このヒュームの言葉がありました。無邪気な楽しみに人生をかけてみよう。学問研究をした挙句、結局何も分からなかったとしても、別にそれでよい。それが自分の人生だと思いました。今でもこの無邪気な楽しみが私の研究におけるたった一つの拠り所です。若い頃に出会ったヒュームの言葉は、私の人生のターニングポイントになりました。
Profile
久米 暁(KUME Akira)
関西学院大学文学部文化歴史学科教授。1998年京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。2001年博士(文学)取得。2003年から関西学院大学へ。研究分野は認識論・言語哲学・メタ倫理学など。特に、デイヴィッド・ヒュームについて深い関心を持ち、研究を進めている。著書に『ヒュームの懐疑論』(岩波書店)など。
運営元:関西学院 広報部