WELL-BEING

希望は速いのか? |聖書に聞く #27

貴田 直樹関西学院初等部宗教担当教諭

関西学院のキリスト教関係教員が、聖書の一節を取り上げ、「真に豊かな人生」を生きるヒントをお届けします。

わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。

ヘブライ人への手紙6章19節

アメリカ人の宣教師がおもしろい話をしていました。日本には新幹線が走っています。こだま、ひかり、のぞみです。列車のスピードもこの順番通りです。こだまというのは音のことです。物理学的に音よりも光の方が速いといわれています。したがって、こだまよりもひかりが速いのは納得できます。ところがこのアメリカ人の牧師は、ではなぜひかりよりものぞみの方が速いのだろうかと疑問を呈していたのです。のぞみというのは希望です。日本では希望は光よりも速く駆け抜けていくことになります。

聖書には、「希望は、魂にとって頼りになる安定した錨(いかり)のようなもの」だと表現されています。錨は船を泊めておくときに降ろして、波に流されないようにするためのものです。動きを止めるための物なので速さとは相容れません。そんな錨としての希望があることによって、人は安心して人生の大海原を航海することができるのだと教えています。

聖書が希望を錨のようなものであるというとき、希望を持たないということの恐ろしさも含意していることでしょう。錨がない船はどうなってしまうでしょうか。思いつくのは停泊していてもどこに流されてしまうかわからないということです。ゆえに停まることができなくなります。停泊することができず大海原をあっちにこっちにずっと進み続けなければならなくなります。しかしながら希望をもっているならば安心して停泊することができるということになります。まさに「魂にとって頼りになる、安定した錨」を降ろして私たちは立ち止まることができるはずです。

聖書が語る希望というのは、私たち人間の側に主体があり、早くたどり着こうと努力をして到達するものではありません。主体はあくまで神の側にあり、神が実現してくださるものです。聖書は神の国の完成という愛と平和の世界の到来を希望として語ります。この希望を抱くことは、頼りになる錨を持つ船のように安心した日々の航海へと向かわせてくれることを教えてくれるのです。

あなたはどのような希望を抱いているでしょうか。あなたを安心して立ち止まらせてくれるものでしょうか。それとも速く走ることを求めてあなたを駆り立てるものでしょうか。私たちが安定した航海を続けるためにも錨を降ろして停泊することも必要なのではないでしょうか。慌ただしく新しい時代に向けての変化を求められるこの時代に、希望があるからこそ立ち止まることができるという視点は、私たちの心をほっとさせてくれるものだと私は思います。

Profile

貴田 直樹(KIDA Naoki)

1987年長崎生まれ、横浜育ち。2009年、関西学院大学神学部卒業。2010年、同大文学部総合心理科学科卒業。2012年、同大神学研究科修了。東京都武蔵野市の境南教会牧師となり、その間、草苑保育専門学校牧師・講師を務める。現在、関西学院初等部宗教担当教諭、武庫之荘教会牧師。

運営元:関西学院 広報部

この記事が気になったら、
感想と共にシェアください

  • X(Twitter)
  • Facebook
  • LINE
  • URLをコピー